チャニーズ・マジカルミステリーツアー bR

絲周之路・膝栗毛

1993・9・10〜25

 1990年の12月から翌年の1月にかけて、神戸より船で上海に渡り、そこから天津まで約300qを自転車で走る計画を実行した。この計画は残念ながら公安局のチェックに会い、途中で断念した経緯があったが、この間にも、暖かいもてなしを受けた中国の人達との交流は忘れられず、再度大陸の空気を自分の肌で感じてみたい、という気持ちが持続していた。

 また、学生時代にネパールヒマラヤで遊んだ折り、峠から中国側に広がる荒涼たる大地の息づかいとそこで織り込まれた何千年のシルクロードの歴史、さらに海をこえて影響を受けた奈良、平安朝のロマンが夢をかきたて、想いは募るばかりであった。

 

 敦煌、トルファン、ウルムーチ、カシュガル・・・

 なんと、耳に心地よい響きか

 あああああ、辛抱できん。

 行くで、行くで、行くで・・・

 なに考えてるの。四月にインドとネパールに行ったとこやないの。

 あれは、半分仕事やがな。

 あんた、なに考えてるの。お金どうするのん。

 夏のボーナス時の小遣い全部おいてるもん。

 あんた、わたしは絶対承諾せんからね。

 ・・・・・・

 どうせ、休暇の手続きも、汽車の手配も全部すんでるんやろ

 ・・・・・・

 

 こんな、いつもの一方的なやり取りがひとしきり続いて、彼女は米穀通帳と茶碗と箸を持って実家に帰っていった。

 卓袱台には、茶色い封筒。中には旅行の小遣いが入っていた。私は、実家の方に向かい、手を合わし、3礼、荷物の用意をするのであった。

 

 さー、いつもの儀式は終わった。

 いくぞー!!!!

 

*現在の中国のお金の単位は元、角、分となっている。だ換券(FEC)は1元≒20円(外国人用貨幣)、人民券1元≒13円位(原則として外国人が使ったらダメ)となっている。汽車、飛行機、公共施設見 学、ホテルについてはFECを要求されるが、それ以外については全て人民券にヤミで再両替をして対応した。なお、上海〜烏魯木齊(ウルムチ)間の詳しいことは、宮脇俊三 著・中国火車旅行・角川文庫(390円)を参照して頂ければさらに楽しいですよ。

               

 

9月10日

 

 梅田で中村と待ち合わせをし、中国人の友達・董 精華とともに大阪南港にむかう。今回は彼の家族に、ビデオカメラを運んであげる任務を背負っているので、彼が見送りに来たのだ。

 

 董さん。なんぼでも運んだげるけど、けったいな物入れたらあかんで。 

 

 石田さん。中国へ麻薬運んでも儲からないよ。 

 そらそうやな。 

 中国人、入国時検査厳しい。お願いします。 

せやけど。もし見つかったら、自分のや、ということで持って帰ってくるで。 はい。はい。

 

 今回、上海まで利用する船は、昨年4月から就航している蘇州丸という船で、貧乏旅行者を2泊三日、朝食付き、23000円で中国の玄関口まで運んでくれる、という大変有り難いものである。

 

1990年12月にも他の船を利用したことがあるが、その折りは揺れたわ、揺れたわ。

 

心配していた台風も無事に抜けてくれて、穏やかな航海が期待されそうだ。

簡単な出国検査を終え、早速二等洋室大部屋に我がテリトリーを確保する。船内は免税とは云え、煙草、ビール位が安いだけで、グリルは結構金がかかる。そこで今回は昼食は全て、自前のおにぎりとフランスパン、ラーメンを持ち込み、出費に備えた。

 

 風呂は24時間ok、シャワー、トイレも綺麗である。今回乗船している客は約50名位だろうか。こんなんで採算ベースにのるのだろうか、と心配してあげると、中国旅行20回の東住吉のオッサンが、「ニーチャン、荷物、荷物でんがな。客なんて乗らへんでも、イタイこともカユイ事もあらへんねん。」と解説してくれた。

 なるほどなー。

 ほな、わしら50人は蚤でっか。

 

 12時出航で2時頃には、鳴門海峡大橋を望みながら一人で風呂を独占する。

 

大きな窓からボケーと景色を見ていたが、行き来する船が近付く度に、なんとなくむこうの船の船長が双眼鏡で覗いて、「わー、あいつのん粗末やわー」、と他の船員に知らせているのでないかと思って、おもわずタオルで前を隠す私であった。

                 2

高知沖位で夕食の案内があり、2人で4品ほど見繕い、テーブルにつく。前回に乗った、鑑真丸での船旅はかなりのものであったが、今回はピリッとも船体が揺れないのである。ほんまに太平洋に出てんのかいな、ひょっとしたら天王寺の亀の池にでも浮かんでんのとちゃうか、と思われるほど静かである。

 

 自由旅行での情報収集は大変大事な作業である。しかしながら、時期的には夏休みも終わり、学生の姿もあまりなく、見渡したところ貧乏旅行の経験者は少ないようだ。一人、頭を剃りあげた青年がいたのでテーブルを共にする。

 

 神戸のプータロウ青年で、今回は中国の華北の方を回るそうな。昨年はアフリカで砂漠横断中にバイク事故を起こして入院、なんとか還ってきた、とのこと。事故の勢だろうか、喋るのが大分不自由である。頭の毛も多分、治療のためだろう、ユルブリンナーの弟みたいになっていた。

 

 ニーチャン、あんまり無茶したらあかんで、と言いながら小父さん達は彼に ビールを注いでやり、私は彼のおかずから肉を取るのであった。

 

9月11日 

 

 それにしても、まったく揺れない。

 鹿児島の開門岳を遥かに眺め、種子島、屋久島と続き、その後は島影がばったりと途絶え、東海(東シナ海と言ってはイカンらしい)の真っ只中に入り込んで行った。

 

 本日も雲がちらほら浮かぶだけのお天気。早速、短パンに着替え、ウォークマンと缶ビール(130円)と文庫本を持ってサンデッキに向かう。

 

今回持参の本は、「トヨタ・日産の陰謀」「鞄に本だけつめて」「石油文明の次は何か」の三冊である。とりあえず、肩のこらない、群ようこの「鞄に・・」を読みはじめるが、

 

 いつのまにか、うつらうつら・・・

 気が付けば、私の腿は真っ赤か!!

 

 2泊目の夜も静かに暮れていった、と書きたいが・・・

 夕食は昨日と同じ様なパターンで済ましたまでは良かったが、この船には2つの食堂があり、一般と特別に別れているのだ。一般はセルフ、特別食堂は一応給仕サービスをしているようであった。勿論、我々は一般で済ましたのだが。

                 

 食事を終えて、ふと特別食堂を覗けば、スナックオープン・カラオケ設備あります、との表示。         

 おもわず目配せ。

 つつつ、と足はその方へ。

 プライスメニューを見たとたん。

 

 上野発の夜行列車・・・

 名もないみなーとに・・・

 我は海の子、さすーらいの・・・

 サライのそらにー

 

 おじさん達は、ラウンジが自分達だけであることいいことに、夜も更けるのも忘れて歌った。酒も普段飲む酒の10倍位高い酒を鱈服飲んだ。

 

 ここで、ヘベレケになる前に今回の同行者、中村君について少し紹介をしておかなければいけないな。同じ職場と云っても、廊下を隔てて、たまに顔を会わすぐらいの仲であった。お互いが普段どのような行動様式をとっているかはウスウス推測は出来きていたが、それ以上のものでもなかった。

 

 そんな彼が、今回の計画を嗅ぎ付けて、いっしょに連れていってくれ、と申し出てきたのは1週間前のことであった。

 

 荒涼とした大地に立たずみ、大きくため息をつき、煙草に火を付ける。こんなポーズを旅の中でとり続けていた私にとっては、二人連れの旅は似合わない。断固似合わないのだ!が・・・。

 

そんなポリシーとは裏腹に、宿代、中華料理の割勘、車の借り上げの割勘、なんでもかんでも割勘を考慮した結果、即ポリシーをシュレッターに入れて知らん顔をすることにした。

そんな訳で今回は二人旅となったのだ。

 

 おねーさん。お勘定!

 3000円

 安ーう。

 昨日から来といたらよかった。

 

9月12日

 

 高価で安価な酒を若干のみすぎたのか、さすがに胃が重い。

 

4時すぎに目が覚めたが、再びウトウト。6時半に目覚めたときには、紺碧の海がまさに黄濁色に変わろうとするときだった。

 

上海の名所に三河交というところがあるが、これは長江と黄浦江とシナ海のそれぞれの水の色が、 (料金に含まれる朝食)

比重の関係で混ざらずに、くっきりと不二屋の3色アイスクリームみたいになっているところだが、丁度この辺なのだ。

 

 さーきたぞ。中国。 

 

 乗客数が少ない分、入国手続きは簡単なものであった。船内で取得したビザの期限は10月21日までの1ヵ月。入国スタンプが押されて、さー問題の税関である。中国への外国人入国は、外国製品すなわち中国製以外の高価物品に対する申告書があり、杓子定規に云えば、ビデオカメラはもちろんのこと、腕時計、ウオークマンの類まで申告しなければいけません。そして、出国の際には申告した物がなければいけません。

 

 我々は、ビデオカメラを最大限に解体し、寝袋の中や、着替えパンツの中にバラバラに押し込み、税関員に近づいた。係員は無言で、「X線透視カメラ何でも見えるんやで」装置の方を、顎で示した。

 

 やばい。

 

明らかに躊躇した歩調でその装置に近ずき、鞄をベルトコンベアーの上に置き、薄暗い部屋の中にいる係官の方をそっと見た。

 彼は、お茶をのんでいる。

 ラッキー!!

 ま、よしんば彼が通常の業務体制を敷いていても、外国人に関しては極めて寛大になって来ているようだ。

 

 結局、ウオークマンも申請せずに通過したので、金に困ったら売り払ってしまおーっと。多分、12000円位には売れるので、平均的なサラリーマンの給料8000円から見れば、十分1ヵ月は暮らせるな。フムフム。

 

 晴れて、中国の大地に一歩踏み出す。出迎えホールに多分、董さんの兄貴さんが迎えに来てくれているはずだ。

 

 いた、いた。石田先生、中先生と書いたプラカードを揚げている。

    わし、あんたみたいな生徒をもった覚えはないで・・・・。      

董さんの兄貴さんはまったく日本語がだめなので、林さんがガイド兼通訳役として付いて来ていた。

 

しかし、彼も日本語が堪能かといえば、たんのうのた位の能力しかなく、意志の疎通を交わすのに時間がかかる。

     

「いしださん、よくいらっしゃい」

「いまから、林さんのお宅にゆきます」

「はい、はい」              、

と林さんが言った。








                 

 南京通りや最近完成した、延長8346mの南浦大橋(有料)などを見せにつれ回してくれたが、私としては早くゆっくりとしたいのだった。   

 夕食は迷惑がかかるので自分達で済ますと、一回だけ軽く申し込んだのだが、強く断られ、すぐにそれに従うことにした。

 

典型的な庶民の夕食と思うが、品数は多く、8品ばかりを狭い共同台所の一つのコンロで作りだしてくれた。

 

 おい、中村。これ蛙とちゃうか。

 白身の魚ですやろ。

 せやけど、この魚、足あるで。

 ・・・・




 

9月13日  

 

 待ちに待った今回のメーンエヴェント、火車に乗る日である。

 

 実は私、宮脇俊三に負けず劣らず乗り物好きと自負しているのだが、ま彼ほどのお宅ではないと思っているのだが・・・。東京の日帰り出張を、前夜夜行バス発、仕事の合間に浅草から品川まで水上バス、帰りは東名高速バスと近鉄電車の計画を実行するようでは、あんまり人のことは言えんわな。

              

 今回の旅のコンセプトの一つに、いかに安く、遠く行くか、があった。

 大阪を出て、パキスタン国境まで行き、再び大阪に戻って来るのに、約2週間、総額10万円以内というプランを建てていた。そして、それを実行に移してしまったのだ。ま、金だけでなく、旅というのはこうありたい、という思いも、一方にあったのだが。

 講釈はさて置き、我々の乗る、特快52/53次・ウルムーチ行きはすでにプラットホームに入っていた。3年前に乗った、上海から蘇州までの列車と同じ、淡いグリーンの大きな車体が、20両連結で待っていた。

 

 12号車硬臥・6番・下舗と中舗(12号車・2等寝台6番下段と中段)がこれから3泊4日に渡って我々を運んでくれる寝ぐらであり、リビィングであるのだが、なによりも、4000Kmを一人8000円弱で運んでくれる非常にコストパフォーマンスに優れた乗り物である。

 

 中国人が移動をする際の荷物の多さは、一度書いたことがあるが、今回は重さも書き加えたい。

 

                 

 おばちゃん、この鞄になに入れてるねん。

 漬け物石を入れているとしか思えないのだ。



 

 シート下に置かれた鞄はびくとも動かない。とにかく荷物の入れ方がめちゃくちゃなのだ。少し整理をすれば、あと一つや二つの空間があるのに。

 

とにかく突っ込んでいく。こちらが整理をしてあげようとするが、・・・。

 

 重くて動かないのだ。すこし考えれば随分と便利に、快適になるのに、まるで考えない。中国人のこの思想、といううより性分はいたるところで見ることができる。おいおい紹介いたしましょう。

 

 なんのアナウンスも無く、火車は定刻の11点51分に、雨に煙るシャンハイ駅を後にした。さて、本日は蘇州、南京、そして長江を6772bの南京長江大橋で越えて、彳州、商丘で日付が変わる予定である。

 

 ここで、我々のボックスにいる人達を紹介しておこう。硬座寝台車のボックスは3段2列の6人が寝ることができる。料金は上に行くほど安くなっており、3段目の高さは2b30位の所にあり、この客車の大きさを物語っている。我々は第6列の下と中段、上段は子供連れのお母さん、第5列は下段と上段が西安まで行くセールスマン、中段がただのオバチャンである。

 

1両8ボックスあるので、この車両だけで48人、外に軟臥、餐車、硬座などが連結されており、ざーっと見渡しても満席であるので、20両で締めて約1千人近い人間が3泊四日の移動を行なうわけだ。

 

 昼食は持ち込んだパンとラーメンで済まし、青島ビールで乾杯をする。寝っころがってウヲークマンを聞きながら文庫本を見れば、いつしか瞼は重くなり、ZZZ・・・。

 

 起きては隣の人と筆談したりで時間を過ごす。向こう三軒両隣のボックスまで調査したが、英語が少し喋れる人は二人だけいた。ひとりは同じボックスのセールスマンのおっちゃんとウルムチ高校?の女の子であった。







   

その外の人達は筆談でしか会話は出来ないが、心を開いて向かえば、人々は本当に気さくになって話をしてくれ、あれこれと世話をやいてくれる。 

 

 時たま、車内放送があるが聞き取れない。少なくも、次はー何々駅、と言ってるわけではなさそうだ。でも、餐車の営業時間やラジオ放送は、まるで、六軒長屋の八つあん熊さんと一緒に旅をしているの雰囲気を作り上げてくれる。

                 

 餐車の営業は6時位から始まった。スープ、ご飯のほかにメニュウは5品が用意されており、1品50円から100円、ビールは40円位である。ただしビールに関しては、コップは出てこず、周りを見ればラッパ飲みをしている人がちらほら。勿論冷やしていないのだが。





 3品とご飯スープセット、ビール2本で締めて、二人で300円でした。   では、おやすみ。

 

9月14日

 

 九朝の都であった洛陽の町は、芥川の「杜子春」が夕暮れから始まったのに対して、残念ながら夜明け前に通過したようだ。

 

窓の外を見れば、明暗を区切って穏やかな稜線がうねうねと続いている。土の色は若干赤みをおび、煉瓦作りの家が主流となってきた。

                  

 家々のかまどから白い煙がたなびく。でも時折、軒先にまっしろいパラボナアンテナが見える。まさか中華鍋を白くペインティグしたのでもあるまいだろうが、点から点を結ぶしょせん旅人のたわごとではあるが、目が点になる。

    

 7時頃から車内の生活も活気付き始める。洗面所、便所は行列、通路では太極拳、湯沸かし室もワイワイガヤガヤ。朝食は最後のカスカードのフランスパンとコーヒとリンゴの3点セットで済ます。

トンネルが多くなり始めた。黄河に向かって両側の山々は迫り始めたのだ。この付近で黄河は幅400bと、一番狭くなるところだそうだ。火車の速度は若干落ちてきているようだ。

                    

 でも、むかしの長安、いまの西安には10点30分の定刻に滑りこんだ。やっとシルクロードの玄関にたどりついたのだ。駅からは西安のまちは城壁に遮られて垣間見ることができない。隣の下段と中段に居た二人のセールスマンは、再見の挨拶で車両から去っていった。彼らは、これから1ケ月半に渡って、各地を転々として冷房機のパーコレーターパーツをセールスするそうな。

 

 I HOPE YOU GET A BIG BUSHNESS    CHANCE. GOOD LUK!  SEE YOU AGEINE! といって別れたとたん、入れ替わりに質素な感じであるが、なにかきちんとした雰囲気の中年の夫婦が我々のボックスに入ってきた。

 

 さ、いつものパターンで、聞き取り調査だ。   

  

   

 14時30分、火車はガタンと「平原塁」という駅に止まった。

まわりは緑

      、稲・・・・・・・

       トウモロシ ・・・・・

       ひまわり・・・・・

       綿・・・・・

 これらの作物を慈しむように取り巻くポプラ並木が続き、そのむこうは荒れ地が広がっていた。オアシスだ。

 

 昼下がりの会話はなんだろう。車内のおばさん連中が寄って、話に花が咲いている。子供達はほったらかし。私がゴロンと横になっている中段ベッドまで梯子でよじ上り、私の足を頻りにこそばすのだ。          

 18時、酒泉に到着。まだお天とうさんは沈んでいない。北京時間で約1時間位の時差が生じているようだ。遅れを取り戻すためだろうか、時刻表では10分停車だが、5分程度で出発である。ハミウリがうまそうだな。依然、景色は変わらない。

 

 車内放送は相変わらず理解が出来ないが、周りの人が教えてくれる。

 にーちゃんら、飯の時間やで。

 条件反射で先頭の餐車に向かって、2両の移動をかける。

 

 おい、お前いけよ。

 石田はんいきーぃなー

 そんなんいうても、わし恥ずかしいがな

 わしかて、よめはんが怖いがな

 

 我々のボクックスの隣にいた、例の奇麗な小姐が食堂車にいたのだ。多分、弟だろう、2人で飯を食っている。横に2人分の席が空いているのだ。そこに座るにつけての、切りだし担当を決めるギリギリの攻防戦の真っ最中なのである。

 

 結局、好色度合いにおいて若干勝っている中村が彼女の横に座った。     ヘヘヘ・・・。向かいに座るほうが顔が見えてエエモンネ。






男の方に、あんたらと同じ物を注文して、と頼む。彼は快く服務員の方に行

って食券を買いに行ってくれた。チャンスや。さっそく、彼女に筆談で色々と話かける。彼が手書きの食券を買ってきてくれた。話が途絶える。彼にビールの注文もお願いする。彼が行く。我々しゃべりかける。彼帰る。途絶える。・・・

                 

 そんなこんなで、二人は姉弟で、姉は23才、上海で美容師の修業をしていたとのこと。今回、故郷のウルムチに帰って店を開くのだそうだ。山口智子みたいなヘヤースタイルで、顔は小さく、さすがに上海でしばらく生活していただけにジーンズ姿にしても垢抜けしておりモデルによく出てきそうな顔立ちである。彼女やったら、そら店は繁盛すると思うべな、と頷くおじさん達の前で、彼女は天子盛りのドンブリ飯を平らげたのであった。

                

 さて今夜のメニューは、チンゲンサイと豚肉炒め、ピーマンと排骨(牛肉)炒め、ビール2、飯2、スープ2、ビール2。締めて247円也。        一時は2時間近い遅れであったが、 1時間位の遅れに回復してきている。この調子で行くと、敦煌の玄関口、柳園につくのは4日目に入った頃になるだろう。少し寝ておこう、周りの人と服務員に、「到了柳園時候請告訴我」のメモを見せる。よっしゃ、よっしゃ、と気持ちよく頷いてくれる。「謝謝」。

 

9月16日

 

 やっと、大地の上に足を降ろせると思うと、興奮してなかなか寝付かれない。結局、2時間位前から荷物をまとめて、そわそわする。星がまばらに見えるくらいに空が大きく拡がっている。柳園の駅はどんなとこやろ。夜の夜中、砂漠のなかに放り出されたらどないしょ。

 

 改札口を抜けると、待合室には2〜30人の人達がいた。横になって丸くなっている人達もいる。さて宿舎を捜さなければ。駅前にはロータリーがあり、その周りにはホテルらしきものが、4、5軒あるのだが、もう明かりがもれている建物はなかった。

 「敦煌まで150Km、2時間半、390円で行くよ!」という声が背後の方からかかった。振り返ると、柳園〜敦煌・30元、と書いたボール紙を手に少年が立っていた。

 

 車はどこやねん。

 あっち、とまだ真新しいマイクロバスの方を指差し。

 

 矢張り、中国で一、二を争う観光地だけのことはある。早速荷物を運び込む。 しかし、乗り込んだのは我々2人だけであった。バスは一考に発車しない。どないなってんねやろ。

 

 しばらくして英語がしゃべれるニーチャンが入ってきた。そして、曰く。

なかなか客が集まらないが、もう出発したい。ついては、このバスは1台5200円の経費がかかるから、2人で持ってくれ、ということであった。

                 

 あほか。そんなんやっら、わしら降りるわ。寝袋かてあるし、朝まで駅で寝て、普通のバスでいきまっさ。普通のバスやったら200円もいらんのやから、と言って、荷物を持ち降りる振りをした。

 

 まあー、まあーと女性の服務員が我々を引き止めに入った。へ、計算どおりでございますわ。まーどっちでもええわ。この時間、なんぼでも待ったるで。

 

 火車は30分に一本位の割合で止まるので、そこそこ客がぱらぱらと降りてくる。約2時間位たったろうか。結局、満席になってしまった。我々の勝利であった。エンジンはかけられた。駅からものの5分も走れば町はづれであり、西部劇に出てきそうな雰囲気である。一応簡易舗装はしてある、とにかく、誰がなんと言っても、ひたすらに一直線の道が、ヘッドライトの向こうにすいこまれて行っている。

 

 メーターは100Km近くを指している。寒さで疲れたのか、いつのまにかグッスリと寝てしまい、次に気の付いた時は、敦煌の町に着いてからであった。4時過ぎに町の中で降ろされても、これまた、かなんな。車の中の温りが恋しい。 

 

 ホテルはバスの助手員小姐が連れていってくれた。西生賓館、ツインルームで一人300円(FEC)で手を打つ。今からチェックインをしても明日のチェックアウトまでで、この料金でOKだと、服務員は寝むたい顔をして言った。これは大変良心的なことである。

 

 二人ともバタンキューでベッドに倒れ込む。長い旅だった。いま、俺は、夢にまで見た西域の中でこれから眠るのだ。へへへ・・・

 

 目が覚めたのは、10時頃だったろう。表通りの賑やかさで目が覚めた。北京時間との時差は2時間ほどあるので、街の朝が始まったばかりなのだろう。トイレ、シャワーは共同である。

 

シャワーは夜8時から2時間だけである。取りあえずは厠所で、火車のなかで腹にたっぷり溜った物を出さなければ。

 

 敦煌の街は小さな街である。大きな通りが2本、T字状に交わる所が人民政府そこを右にとれば映画館などがある娯楽エリア、博物館、郵便局、そして中国民航オフィス。これだけです。

 

 当初、この旅でのプランはこの街、敦煌までしかたてることが出来なかった。飛行機にしても、地方部に行けば全くオンライン化がされていないので、目的の街に行って、次の切符の手配をして駒を進めて行かなければならないのだ。

 

 民航事務所は半分シャッターが閉まっていたが、営業はしているようである。

                 

早速、ウルムチまでの予約をするが英語が通じない。メモに書いて服務員小姐に手渡すが、少し笑うだけで反応がない。メモは彼女の机の端に置かれたままである。待つこと約20分、他の書類処理をしていた彼女はやっと我々のお相手をしてくれることになった。

 

 我々の希望は9月18日のフライト。今日はゆっくりと休養、明日、メインの莫高窟、鳴沙山、月牙泉の3点セットをと思っていたのだが。小姐は明天11点出発ならあるよ、と言ってのけた。機嫌を損ねてはいけない。中国の服務員は気紛れだから、手に入るチャンスは逃がしてはならない。

 

 明日、8時に事務所に来いということだが、名前も、パスポート提示も求めない。どうも釈然としない。しかし、明日が出発なら、今日の昼から全てを見て回らなければならない。

 

とりあえず昼飯だ。大通りの立派な飯店に入る。焼きウドンのつもりで注文したが、出てきたのは、名古屋きしめんの、幅にして約4倍、長さは5a位にちぎってある代物と赤ピーマン、青ピーマ、なすび、肉片を炒めたものであった。それと炒飯。これは卵とねぎだけのシンプルな具だがなかなかうまい。2品とビールでお腹いっぱい。はいお勘定は175円でございます。

 

 莫高窟、鳴沙山、月牙泉の3点セットはなんとしても見たいが、定期バスは無い、特に莫高窟は街から60Kmほど砂漠の中に入って行かなければならない。街角にたむろしている車を適当に見繕って、値段の交渉に入り、結局、軽の1ボックスを100元で3箇所の契約をした。

 鳴沙山は街なかからも彼方にそれと確認できる。小石混じりの土砂漠の砂が風の影響でここに集められたのであろう、東西40Km、南北20Kmの大きさがあり、じっとたたずむとまるで大きな砂時計の中にいるようである。そして月牙泉は、その砂丘群のなかにひっそりと青い水を3000年にも渡って枯れずにたたえるいる三日月形の池である。


 最初のうちは入場料169円(FEC)を払い歩いて行こうとしたが、さすがに砂に足をとられ、30度を越える炎天下での歩行はしんどい。さっきから、お客さんラクダに乗るとラクダ、と言いながらしきりに後をついてくるおっさんがおり、最初は無視をしていたが、月牙泉まで130円の声に負けてしまい、

 

おっさん二人はラクダの背中の人となってしまった。

 

 オアシスと言えばなにか絵になりそうな感じの響きをもっているが、なんのなんの・・・・。とにかく砂埃がすごいのだ。さて一旦、敦煌の街にもどり、莫高窟に進路をとる。それにしてもこの軽自動車は調子がわるい。案の定、途中砂漠のど真ん中でエンスト。止まったところは、砂以外なーにもないわ!

                 

 電気系統のようだ。プラグをごそごそいじっている。10分ほどでその場しのぎの修理は終わり、再び車に乗り込み、遥か彼方の山らしきものに向かって、一直線にとにかく進んだ。涸れ河が右手より近付いてきたが、その川の向こう岸に、ちらっと漠高窟らしきものが見え隠れしはじめた。

 きたぞー。

 おい中村、あれや、あれやで−!!!!




 来ました。砂漠の大画廊と呼ばれ、今にも砂漠が飲み込みそうな切り立つ断崖の南北に1600mに渡ってびっしりと石窟が掘られ、現在確認されているだけでも492窟あり、四世紀頃から始まって、約1000年に渡って作られたそうな。

 想像を絶する世界であるが、入場料も想像を絶するものであった。私の持っている、いつもの「地球のあるきかた・シルクロード編」は89年度版ではあるが、入場料は6元となっているが、なんと45元FECを要求された。

900円である。昼飯や宿代からして、いかにべらぼうなことか。    

 

 しかし、ここまで遠路はるばる来て、900円をけちるわけにはいかないし、しゃーない。さらに撮影は壁画をフラッシュで痛めるため禁止、カバン類も遺蹟持ち帰り防止のために、お預かり。はい、預り賃2〇円。壁画を見るための懐中電灯は50円。ええかげんせーよ。一緒にまわっていた、近畿日本ツーリストのおっさんも、ここは北京の故宮博物館と同じで高いですわ、とのたまった。

 

 おっちゃんら、なんぼのツアーで来てるの?

 

 15日間で北京、敦煌、ウルムチ、トルファンなどを回って50万ほど・・。 

ヒェー。 

ぼくら大阪からここまで三万円できましてん。

 ほんまかいな。そら入場料も骨身にしみるわなー。おたくら学生さんか?

 (しばらく間を置く)そうですねん。

 900円で見られる窟は限られているが、もとよりこのような壮大な遺蹟があるということは知っているものの、美術的な価値とか歴史的背景などは、900円に対する感性の高まりに比べ、忸怩たるものがあり、結局、フーん、といった声しか正直のところ出ないのであった。

 

 さて、敦煌3点セットの見学は終了した。ホテルでひと眠りしてから飯にしようや、ということで、車をホテルに着けさせる。ほな、ウンチャン、調子の悪い車でご苦労さんでした、と100元人民券を出すと、彼の顔が強ばった。  

 

                 

 なんやねん、契約どおりやないか。

 FEC.FEC.・・・  

 あほか、FECは人民券の1.5倍するんやど

 FEC.FEC.・・・ 

 

 無視して降りようとすると、太いで腕で掴みかかってくる。

 異国の地でのトラブルは避けたい。これは鉄則である。

 譲歩して、半分だけFECを渡す。まだ不満らしいが、すこし雰囲気が柔らかくなったので、一気にホテルに駆け込む。

 

 闇相場で1対1.5で交換するということは、実質それ以上のレートが存在することになる。なに故にこれほど、北京や上海から4000Kmも離れた砂漠のオアシスで起こるのか。自由経済の急激な成長によるヒズミしか考えられない。 それにしても、腹の立つことだ。

 

実質125元言うたら、1625円、平均給料の2割を半日で稼ぎよった。ただ、8000円を25日で稼ぐとなると、1日320円。そうなると、彼の実質儲けは、経費を差し引いてそんなもんかなー、などと思っていると、少し収まってきた。

 夕食はホテルの近くの極々一般的な庶民の食堂に行く。昼間の焼きウドンを再度トライ。

 

今度は「炒面」と書いたメモを渡す。成功であった。 昼間は「炒面片」と書いたために、面がちぎってあったのだ。その外、ビール2本、餃子、茄肉炒めで169円とは申し分けない。おまけに、我々がここを非常に気にいったのは、ビールが冷やしてあったことだった。

 

9月17日 

 

 朝8時、民航のオフィスに行く。まだ、服務員は掃除の真っ最中であった。 11時の出発なら、遅くとも9時までにはここを出なければ、と気を揉むが、一向に気に止める風でもなかった。やっと、掃除が終わったので、昨日の小姐のところに行き、精いっぱいの笑顔で、ウルムチ行き・男・2枚下さい、と言ったが、答えは、没有(メイヨー)であった。

 

 なにが、没有やねん!男の席はないのか!           

 昨日、17日8時に来いと言うたやなか!

 おまえ、最初から売る気がないやろ!

 それが証拠に、わしらの名前も、宿の名前も聞かへんだやないか!

             と、ポンポンポンと日本語で言うたりましてん。 

 その後直ぐに、とにかく顔を強ばらせずに、今日か、明日のチケット売って頂戴、と揉み手でカウンターに躙り寄った。

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 彼女はおもむろに書類を繰って、明日ならあるよ、と言った。

 

 なに、明日やったらあるてか!

 昨日、お前はあしたの分は没有や言うたやないか!

 なに考えとんねん!

 ええかげんせーよ!荷物までまとめて来てるんやど!

            と、ポンポンポンポンと日本語で言うたりましてん。

 その後直ぐに、それお願いします、とアプリケーションフォームにパスポートナンバーを記入して、彼女に渡した。

 

 それから、チケットが我々の手に渡されたのは、小1時間経ってからのことだった。もらったチケットは徹底的にチェックをした。ほんまに信用できひん。

 

 旅客氏名は石田義久、敦煌から烏魯木斎、承伝人は中国新彊航空公司、航班号は9222便、座位等級はエコノミー、日期は9月18日、離港時間は11点、定座状況はOK、免費行李は20s、点数500元FEC(10000円)、よしよし全部間違い無く、記載されている。これで一段落である。

 

 それにしてもですます。今夜の宿を捜さなくては。西域賓館へもう一度行くのはかっこ悪いしなー。ガイドブックで目星をつけて、鳴山賓館へ行く。ツイン一人600円である。昨日の2倍の値段である。部屋も小さい。場所が便利の良い所にあるだけである。

 

 どっちやねん! 

 泊まります。

 荷物を持ってウロウロするのは、もうおっちゃん達にはしんどかったのだ。

 

 早く起きた分の埋め合わせを少しして、本日は晩飯まで自由行動とする。ま、自由行動といっても、今日までまったく相棒に関しては気にも留めなかったので、どっちでもええんやけど。

 

 町はづれの住宅街を覗きにいく。藁を混ぜた土壁で5〜6軒が1ブロックとなって囲まれているので、中が見えない。

 

ただ雨量がほとんど無いので、屋根は無いようだ。足場丸太位の材木を壁に懸け、その上に葡萄の葉っぱを被せているだけのようだ。屋根のある部屋に寝る文化がないのだろうか、中庭にベッドを持ち出している家が目に付く位であった。
















 家屋だけで言えば、何千年の昔からなーんにも変わっていないのである。おそらく食物にしてもそうなんだろう。路地を歩いていて、ふと後を見れば、西蔵法師がトコトコ、なーーんてことも十分にありうる雰囲気である。

 

 夕食は、昨日いった店が気に入っていたので、9時頃再度訪問。育才飯店という名前だ。間口3間、奥行1間半位の小さな店。夫婦、お爺さん、孫、の家族で気楽にやっているという雰囲気だ。旦那は昼間は働きにいっているようだ。

 

並びに同じような店が5軒ばかしあるのだが、かのガイドブック、地球の歩き方に、隣の店のことが大変美味しく、安いということで掲載されているが亀の甲おじさん達はあえてその隣の、育才飯店を選んだのだ。

 

 さて、いかなる思考回路でこうなったか。

 本においしい店が掲りますな。

本を読んだお客さん、たんと来ますな。

店の人喜びますな。店の人愛想がいいから益々繁盛しますな。 

 店が儲かりはじめますな。おっさんロバを買いますな。

 店のおっさん、ロバのローンで味への精進を忘れますな。

 隣のおっさん、わしもロバに乗りたいとおもて、頑張りますな。  

 隣のおっさん、味への精進をしますな。            

 客は味の低下に気付かんと、依然もとの店に行きますな。

 わしらは、よくすいた、味の良い、無理して買った冷蔵庫の冷えたビールを飲みますな。満足しますな。満足しますな。満足しますな。・・・・

                   

9月18日

 

 起床7時。実質は5時位、故に外は真っ暗である。さ、今日こそ敦煌の街を離れるぞー。民航オフィスへ8時発のリムジンバスに乗るために向かう。民航に来たバスは既に8割り方、少なくとも飛行機に乗りに行く人々ではない様な人達に占領されていた。天下茶屋で立ちんぼして、砂漠の現場に連れてゆかれるような雰囲気である。30分あまりで、砂漠の中の机場に着いた。

 

 続々と観光バスが到着してくるが、多くの観光バスに混じってよく見ると、佐川急便のトラックや東京国際空港バスが入ってくるではないか。

 

一瞬目が点になった。勿論中古車で流れて来ているのだろうが、流れすぎやがな!

 

 

 

 

 

 




 荷物代 40円!(FEC)     なななにー!

 飛行機座席料400円!(FEC)  なななにー!

 空港使用料300円!(FEC)   なななにー!







 空港建設協力費800円!(FEC) なななにー!





                

チェックインと同時に服務員から発せられた言葉である。

 

なにを考えてるねん。10000円の航空運賃の外に、この請求はなんや!空港使用料は辛抱するとして、どこの世界に手荷物代や座席料や建設協力費を取る、飛行機会社があるねん。

立席の飛行機があるのか。責任者出てこい。諸経費で10%以上になっているやないか。とにかく外国人料金に関してはこの国はぼったくりである。天安門事件で一時観光客ががた減りしたときにおまえ等困ったやろ。それも忘れてこんなあくどい商売しやがって・・・・・

 






 

1540円位でプリプリするなよ、とおっしゃるかもしれないが、一日飲んで食って寝て1000円の旅行をしている身には痛いでっせ。

 

 天候の安定している午前に飛行を集中させているのだろう、この時間帯に6機くらいのフライトがあるようだ。チェックインを終えた客は待合室に集まり始めた。滑走路へは待合室から3つの出口が設けられているが、開けられたのはその内の一つの扉半分である。アナウンスもない。飛行機は滑走路にズラーと並んでいる。このような状況で中国人のとる行動はどうか、分かりますか。

 

 居ても立ってもいられないのです。とにかく最終目的である飛行機のそばに近ずかなければ気が済まないのです。約200人位の人間が例の荷物を持って、半分だけ開けた、扉に殺到し始める。周りの人間も取り敢えず、突撃をする。

 

砂時計の中の砂が細い部分に流れ込むようなものである。空港服務員は必死に滑走路への流入を押さえようとするが、数の力でどんどん客は滑走路に入り込むのだ。

 こいつらこんな光景を毎日繰り広げてるんやろか。たしかに、アナウンス設備も電光掲示板もないが、なければボール紙にでも、ただいま何何行きの改札、とでも書けば済むことを。汽車に乗った時の荷物持ち込み騒ぎとまったく同じである。とにかく我先なのだ。

 

 さて飛行機はまだ出ない。燃料車がやっと来て、一台づつ入れているところなのだ。滑走路に入り込んだ中国人達は、ボーディングカードに機体番号が書いてあるので、それぞれの飛行機の前に並び始める。西欧人の旅行者はまだ待合室の中だ。

 

 ひょっとしたら、こいつら座席料を払ってないから並んでるのかな。そんなアホナー。それにしても、ほんまに何を考えてるんやろ、こいつら。出発準備も整ったようだ、機体に近づいて見る。機体はソビエト製だろうか、見たことのないものだった。丁度、YS11型に似ている。

 

 待合室で知り合いになった、シンガポール人のヨウが,ISHDA SAN KONO TAIYA MITEYO!と言った。見れば、普通坊主タイヤというのは溝が無いのがせいぜいであるが、下地のワイヤーコードが見えているのである。

 

こんなタイヤで翔ぶんか。中は40〜50名位の座席数だろうか、お急ぎになっておられた中国人の人達はすでに、立ち席ではなくそれぞれの座席にすわっておられた。

 

 なかなかベッピンな長身の航空小姐がまず記念品を配った。身体化粧粉と書いてある。多分ボディーシャンプーかローションであろう、強烈な香料の匂いだ。 しばらくして機内食が出てきたが、クラッカー、パン、ジュース、ゆでタマゴドロップス袋です。なんやねん。でも、我々は外国人料金で2倍払っているものの、中国人にとっても大変な額なんですよね。そして、これらの記念品や機内食も大変珍しい物なんだろうな。ま、我々としては、機内食代金まで取られなかっただけでも幸いであった。

 

 約2時間のフライトでタクマラカン砂漠の北をかすめてウルムチ国際空港に到着した。ウルムチは新彊ウイグル自治区の区都であり、人口100万を数える大都市であるが、ウイグル人が多く住むこのエリアは、我々が描いている中

 

国のイメージのなかではもう対応出来ない世界である。

 

 街のそこかしこで、シシカバブーやハミクワを売っており、売手の顔も、漢民族ではなく、イラン、トルコ、ロシアの影響を強く受けた顔立ちである。

 

 空港より市街地までリムジンバスで26円。さて宿捜しであるが、シンガポール人の二人連れが心当たりがある、ということだったので、彼らに任すことになっが、結局、我々のガイドブックにもある紅山賓館(ピンジャンヒンカン)であった。

 

多人房(ドミトリー)は満員とのことで、一人900円FECのツインルームに泊まることとなった。900円はイタイなー。でもバス、トイレ付き24時間使用可なら仕方ないか。

 

9月19日

 

 紅山賓館の1・2階には旅行社をはじめとして多くの企業が事務所を持っている。事務所と言っても机2つにベッドが2つの設備のなかで、スタッフが寝泊りしているような事務所であるが。昨夜のうちに、トルファン1泊2日、1560円のツアーに申し込みをした。トルファンにだけ行くのであれば、1日数便のバスが6時間かかって143円で運んでくれるのだが・・・。見所がいかんせんオアシス周辺に散らばっているので、かなり高くつくが、このツアーを利用することにした。

 7時起床、チェックアウトを済ました後、すぐ横手にある、ナンカよう分かれんけど、工場の路上社員食堂に紛れ込んで、コーン味お粥とにらがたっぷりと入った餃子の親分のような揚げパンで朝食を済ます。はい、15円。中国人の場合、結婚をしたからといって、家庭に入ることはないわけであって、朝からこのような外食の光景があちこちで見られる。

 

 ホテルの前に待っていたマイクロバスに乗り込むが、お粥の温もりがほっこりとお腹に溜り、走りだしてすぐに眠気が襲ってきた。今回のツアー客は日本人が3人、シンガポーリアンが2人、天津人が4人、四川省人が4人、英語が少し喋べれるガイド業初日の小姐とドア開閉係のオッチャンであった。

 バスは東に進路をとり、途中、北アルプス焼岳から上高地に入るような雰囲気のところを通過し、峠を抜けて、トルファン盆地へと下っていった。漢字でトルファンを書けば、吐魯番であるが、なんと心地よい音の響きか!この言葉を発するだけで、オアシスをろば車がとことこ歩いている光景が浮かびあがってくるのは、私だけでせうか。

 

 愛しのトルファン、と呼ぶ人もいるこの街は天山山脈のふもとにあり、世界で一番海から遠い盆地だそうで、海抜−150m(マイナスでっせ)位のところにあるのだ。          おー・アンビリーバブル!

 

 途中1回の休憩を挾んで、約5時間、バスは砂漠地帯からトルファンの街に入っていった。やっぱり、小さな街はほっとする。少々ウルムチの大都会で食傷気味であった私としては、葡萄棚アーケードを持つメーンストリートは大変嬉しいものであった。葡萄棚には無断で取れば、罰金10元の看板がかかっているが、なんともほっとさせる光景である。

 

道ゆく人々の顔立ちもウルムチよりさらにウイグル系の人が多い。昼食の後、火焔山、ベゼクリク千仏洞、高昌故城、葡萄溝と見て回るのだ。

 

                 

 ガイドブックにはバスがないので、ろば車を交渉してこれらの名所を回ろう、なんて書いてあるが、そんなもん回れる訳がない。火焔山、ベゼクリク千仏洞、にしても、5〜60q位離れた砂漠の中にあるのに。ええかげんなこと書くな!

 

 火焔山は長さ100q、幅10qの標高851mの真っ赤に燃えたような山で、例の西遊記にも登場し、山蔵法師は孫悟空、猪八戒、沙悟浄を連れこの地を通過した際に、山が燃えさかっていて通過に困難を極めたところである。火焔山の丁度裏側にあたるところに、ベゼクリク千仏洞なるものがある。

 

6〜14世紀に至までの間にあった石窟寺である。当時ウイグル人は仏教を信仰していたが、イスラム教の侵略に会い、偶像を禁止する彼らの手によって、壁画や菩薩の顔は取られてしまっている。いまはただ足元に広がる、ムルトウク河の断崖に通る風の音だけが、過ぎ去った昔を語っているだけのところであった。

 さてお次は、高昌故城。すこし街の方にもどったところにある。周囲約5qの城であるが、とにかく藁を混ぜて練った土の家である。いまの家と基本的には変わりがないので、漢から明の時代、1500年に渡って政治、経済、文化の中心として伝々と言われても、ピンとこないのだ。この地においても、三蔵法師は時の王に懇願されて、1ヵ月間、経の講義をしたと言われている。

 

 さてお次は、アスターナ古墳。ウイグル語で休息の場所という意味だそうだ。貴族達がこの地に眠っているのだが、これほど唐突にミイラとして見せられるのは、あまり気持ちのよいものではない。

 

発掘中の墓を順番に見せてくれるのだが、一つ目からいきなり、2体のミイラが横たわっていた。もうちょっと、見せ方があるやろー。そのあとの墓はごくごく普通の物であった。

 

 真っ黒で、バッタが干からびたようなミイラの顔は、歓喜の表情なのか、恐怖の表情なのか、読み取れなかったが、じーと見ていると、胸がむかむかして来て、あわてて地表に出たが、そこにひろがるのは大きな歴史の流れをまるで感じさせないただの赤土の大地であった。

 

 最後の葡萄溝は、国営の大きなブドウプランテーションで、トルファンの街をブドウで全国に知らしめた所でもある。房のブドウの味はさほどのものではなかったが、干し葡萄は確かにうまい。ここもそうだが、行くとこ、行くとこで、入場料5元FECを要求され、おじさん達は腹を立てていた。黙っていれば、中国人料金で13円位で入れるのに、なんせガイドが正直に申告するものだから・・

 皆さんが見学に行っている間、民家を見て回ったが、街から30qほど離れたこんな谷間の農家にもTVはあった。ウイグル人の女の子が中庭にござを敷いて宿題をしている。覗き込むと、ウイグル語の書き取りを一生懸命しているかの様                 21

であったが、彼女の目は、家の中にあるTVの方に釘付けであった。彼女の

見ていた番組はなんと、中国語で喋る「一休さん」であった。









  

こんな所でも、リアルタイムで世界中のニュースが入ってくる。いったいどんな気持ちで画面を見ているのだろうか。孫の横でニッコリと笑いながら、「子供やからテレビばっかりで、いっこも勉強しませんわ」と言いたげなウイグルのお爺さんを、私はじーと見ていた。

 

 このツアーには宿は付いていないので、自分で探さなければならない。幸い、6人部屋のドミトリーが開いていたが、600円とさすが観光地である。先客はイギリス人のカップルが入っていた。

 

一通りの挨拶を済ませ、耳に残ったものはイギリス人の綺麗な英語だった。シンガポーリアンの英語ばかりを聞いていた耳には、新鮮なものだったが、次におじさんをドギマギさせたのは、キャミソール姿でうろうろ部屋中を歩き回る彼女の姿であった。

 

 シャワーを浴びた後、夕食に出掛ける。敦煌からの行動を共にしているシンガポーリアンの2人と我々の4人でホテルの近くの清真レストランに行く。清真とはイスラム教向けの食堂で、豚肉は使っていませんよ、という印であり、酒も置いていないところが多い。こうゆう場合は隣の店でビールを買って持ち込みをするのだが、イスラム信者が禁酒をしているだけで別段問題はないらしい。この地のご飯は若干粘りがあり、矢張り焼き飯はいまいちであったが、例によって一人234円で満腹満腹。









9月20日

 

 起床7時。さ、また観光だ。始めは街のすぐそばにある蘇公塔である。18世紀、当時の王が父のために作った塔で高さ44bの幾何学模様というかモザイク模様といおうか、不思議な塔だ。

 

 砂漠地帯の河は調度グランドキャニオンのように、深く、大きく大地を削ってゆく。二つの河が交われば、河と河の間は断崖絶壁を備えた自然の要砦ができあがる。交河故城とはそんな所で軍事基地として栄えたところだ。でもいまは昨日見た高昌故城と同じく、しずかに昇り始めた太陽のもと、あー今日も暑くなりそうだ、と言っているうめき声が、そこかしこの崩れかけた住居から聞こえてきそうな所だった。

 今回の観光ツアーのどん尻は、カレーズ。意外とこの言葉を知っている人は少ない。でも、たしかに中学の時の社会科の教科書に出ていましたよ。発祥の地はイラン、山からの覆流水を街に引いて来るための技術で、山の麓から街に向かって一定間隔で立抗を掘り、こんどはそれを横穴で繋いで水利を得る方法である。






                 

 その内の1箇所が観光地として入場料を取って公開しているのだ。なかなか、したたかなものであることよ。でも水はそんなことにおかまいなく、冷たく澄んだものだった。

 

 10時に全てのプログラムは終わった。バスは再びウルムチに向かって砂漠の中を走りはじめた。たしかに名所は効率的に全て回ることが出来たが、やっぱりこの手のパターンは苦手だ。行きに休憩した所で同じく小休止した後、盆地を抜け出すために峠に向かって昇って行っているのだが、まったく視線ではキャッチすることが出来ない。唯一、分かるのは、さきほどからバスのギアがサードに入ったままで1時間ほど走り続けていることからだけだ。

 

 峠を越え、再びウルムチへ向かって行くのだが、途中雪を戴いたボゴダ山、 5400メートルが、彼方に見える場所がある。大きな羽を付け足見慣れない物体が100台位い、等間隔に並んでいる。だんだん近付くにつれて、それはプロペラ飛行機のエンジン部分だけを外したようなものが、地上30m位のところに据え付けられているものであった。鈍く光る銀色の物体は、周りの荒涼たる砂漠と雪を被った山という絶妙なコントラストに水をさすものであった。

 

 ガイドさんに聞けば、風力発電所で、ウルムチ市の電力を賄っているとのことである。この地は、ボゴダおろしが年中吹く地で、風力発電に適しているとのことであったが、年間降雨量20ミリのこの地では、ソーラー式の方がベターとちゃうやろか。風が吹けば桶屋が儲かるという話は聞いたが、国が儲かるとは、ほんにおもしろい国だ。いづれにしても、異様な光景である。

 

 しばらくすると、こんどは湖が左手に広がってきた。行くとき全然気が付かなかった光景である。行きによほどよく眠っていたのだろう。その湖をよく見ると、波打ち際がずーと白くなっているではないか。

 

スェーデンの探検家ヘディンが幻の要塞、桜蘭(ローラン)を調査する際に「さまよえる湖・ロプノール」の周期的な移動を立証する件のところがあるが、砂漠の中にある湖の多くは、水分の蒸発が多く、塩分濃度が上がり、海水よりも塩辛くなっているとのこと。そして、ロプノールは1600年周期で移動をするという壮大な地球絵巻であるが、その移動につれて塩田から岩塩地帯に変わって行く、というのを以前読んだことがあるが、すぐさまそれを思い出し、ガイド小姐に確認したが、そのとおりであった。

 

 この湖も移動をしているのだろうか。2日おき位に移動したら面白いやろな。漁師さんもお魚さんも困りますな。国土地理院も困りますな。飛行機の操縦士さんも困りますな。喜ぶのは観光客と塩専売公社だけですな。そんなアホなことを考えているうちに、ウルムチ市に入る手前で昼食タイムを取った。

 

                 

 紅山賓館で再びチェックイン。多人房は相変わらず、没有の声が帰ってきた。昨日旅行前に上海までの航空券を申し込んでいたので事務所に行って様子を聞くが、まだだよ、と言われた。私としては今週の日曜日に帰ればいいのだが、相棒の中村が突如、砂漠の真ん中で、

                       わしなー、土曜日にはどうしても帰りたいねん。

              

なんでや???       

子供の運動会が日曜日にあるねん。

なにー!!!! 砂漠の中でそんな話するなよ。 

  

すまんなー。

  

現実に引き戻すといっても、あんまりやないか。

  すまんなー。ビールおごるわ。

  あほ。ビールは40円やないか。

  ヘヘヘ・・・

 てなわけで、航空券の予約をしていたのだ。しかし、上海まで24日までに行けたとしても、上海・大阪の切符が確実にある保証はなにもないのであるが・・・。

ま、あれこれ考えてもしょうがない。毎日の行動が交通機関に乗る関係上、起床が北京時間、実生活がローカルタイムになるので、実質グリニッチ時間で言うならば、5時起床の12時就寝というスケジュールになってしまう。シャワーを浴びてひと寝入りだ。こんな生活を続けていては身体が持たない。     

 

 さすがに、連日の行動で身体が少し重たくなって来たようだ。23もしくは 24日上海行きのチケットが手に入ったとして、21、22日が確実に手空きの日なってしまうが、明日にはチケットの状況が分かるので、明日は休養日にしよう。

年寄りは無理をしてはいけないのだ。

 

(電話申込書)

 8時ころより、まず電話局へ行き、上海の林さんの電話し、大阪行きのチケット手配を頼むためにでかける。電話局は24時間営業であるが、凄い人出だ。長途電話は2階にその申し込み口がある。

 

まず、申込書に自分の住所、相手先の電話番号を書いて行列の一番後ろに並ぶ。並ぶこと約30分窓口で保証金50元を払い、番号が書かれた直径5a位のコインをもらう。

 

20台くらいの電話ボックスが並んでおり、もらったコンン番号のボックスに入って、普通の電話の方法でダイヤルすればよいのだが、回線状況が極めて悪く、かけている途中にすぐに切れてしまう。これでもか、これでもかで20回、やっとかかれば、ウエイーウエイー(もしもし)の声、ウオー・シー・リーベン・リン・チーミン(私は日本人、林さん)を10回ほど繰り返す。

 

 

 なんやねん、こいつ、と切られてしまった。再度トライ。

かかったとたん、横に居た人を捕まえてメモを見せ、この人を呼び出してと頼む。なんとかつながり、上海/大阪のチケットを頼むが、どうも例の日本語で要領を得ない。まーなんかなるやろ。

 

さて、腹ごしらえだ。もっとも賑やかだと言われている二道橋市場に行ってみたいのだが、少し遠いので、ホリディインの近くにある屋台街に行く。シシカバブーの匂いが鼻にまとわりついて来るのだ。脂の少ない肉を刺している店を捜しながら歩くが、にぎやかな客引きの声で味覚に対する追及の態度が揺らいでしまい、もうこの辺の店でええやん、ということになってしまう。

 

 炭火だとばかり思っていたが、実は石炭である。それも非常に上質な物であろう、少しも匂いがしない。金串が10本ばかしその上に並べられる。塩、さんしょ、とんがらしがサササと降りかけられる。ジュージューと脂が回り始める。

 つかさず、何枚も重ねておいてあるナンが上にかぶせられた。我々のテーブルに届けられるまでにビールを買ってこなくては。近所の酒屋に行き、ぬるいビールを2本抱えて帰ってくる。                       

 

ドンブリが置かれる。少し泡が多いがビールであればそれで良い。シシカバブーがジュワーと音を立てながら差し出される。金串を右手に、ドンブリを左手に、二本、三本、・・・・。身も心もほぐれて行く。道行く人々はウイグル族が多い。見上げれば星ぞら。ここはお国を離れて何千里。身も心もトリップをしてしまいそうだ。 

 

 同じテーブルになったサラリーマン風の二人がしきりに串をすすめる。俺の酒が飲めんのか!俺の煙草が吸えんのか!俺が払うがな!いや俺が!の典型的なよっぱらい風景が、俺の前で展開されるまでには、さほどの時間を要しなかった。いずこも同じだ。ここはお国を離れて何千里。

 

 9月21日

 

 心地良い目覚めだ。建物は冬の寒さを防ぐために二重窓のところが多いが、ここは3階の部屋ということも相まって静かな朝を迎えた。街路樹の向こうにウルムチ市のランドマークである紅山(ピンジャン)が望まれる。てっぺんに何か建っているのだが、はっきりは見えない。夕方にでも行ってみよう。

 

 さて、おいどから分身も気持ち良くお出ましになったし、朝飯でも食いにゆくか。トルファンに行く朝に食べた路上社員食堂に行く。前回と同じナン生地の中に韮のタップリ入った揚げパン?とおかゆさんスープ、キャベツ、トマト、キューリのピクルス、すがすがしい空気、これで旨くないはずがないわな。

 

 出勤途上であろう、いつもの事、といった雰囲気でシーンが展開されているが、対象的にやたら悦に入っているのは私だけであった。

 

 今日は休養日も兼ねてウルムチ市内をブラブラしよう、ということになった。 路線バスはそこそこ走っているが、少し速くて、冷房が利いていて、確実に座れて、この3拍子が受けているのだろうな、ミニバスの方が圧倒的に多いのには驚かされる。

町外れに動物園がある。例によって外国人料金と人民料金の表示のある入り口に到着したが、一緒に行ったシンガポーリアンのヨウが、口に人差し指をあて、切符売り場に向かった。

 

彼は華僑の血がミックスしており、中国語が若干  話せるのだ。無事に人民券5元で3人は入場した。結局、国土が大きいだけにあらゆる血が混じり、これが中国人の顔というわけにはいかなくなっており、しゃべらなければ分からない、裏返せば中国語が話せれば、証明書提示を要求されない限り、結構人民料金でいけるのだ。ただし、飛行機や他府県にまたがる汽車旅行は旅行証明書がいるから結局、一緒になってしまい、努力が報われるというほどのものではないようだが。

 パンダはこの動物園にも以前居たそうだが、寒さで死にはったそうな。ちなみにウルムチで冬はダイヤモンドダストがきらめく−20度の世界、夏は40度の世界、その差60度。なんぼパンダが白と黒の夏冬両様カラーで対抗しても大変な世界だ。それに故郷の四川省に比べれば、湿度一つ取ってみても大変な違いであろう。道のそこかしこ羊の大きな肉の固まりがぶらさげてあるのだが、其れに蠅がたかっている様子が無いのだ。乾燥度が大きく腐敗が始まらないようだ。

  

 毎年、夏になると出会うのだが、小学生の頃から付き合っている水虫君も、連日のこの靴生活にもかかわらず、お出ましにならない。いやーほんと、砂漠っていいですね。

 

 上海の動物園もそうだったが、王子動物園やファミリーランドの様なせせこましい動物園しか知らない人間にとっては、いささかこの動物園は広すぎる。大きな緑地公園のようなレイアウトの中に、ちらほら檻が見えるのだが、その檻の手摺に寄り懸かって見ている人々を見ているほうが興味深かかった。本当にここは中国なのか。

 

 二道橋市場で二人と別れてぶらぶらと下町の住区に入っていった。

 

さきほど来よりビールの勢で腹がはって来ている。結構ゴミを捨てるのは目にするのだが、街なかで立ち小便をする姿はとんと見掛けない。トルファンにバスで行った時にも、トイレタイムを要求したが、結