バスで40時間

おじさんは、中麺国境になにを見た!

1995・12・21〜30

(1995年2月現在 1元=12円)                    

    

 24時間のバスの旅は、幾つの峠を越えて来たろうか、何回目かの休憩はもう真夜中になっていた。窮屈な車内から眠い目を擦りながら外に出てみると、はく息は白く、頭上には満天の星空と天の川が拡がっていた。                  

 シ−サンパンナ

 西双版納。                                  

 何度となく地図を見ながら口にした地名だ。 

                   

明日の昼には、その地に到ると思うと、もう眠れそうに無い。

 

1995年12月21日

 

 早朝出発の関空発はいつものことながらアクセスの選択で迷ってしまう。勿論、選択の段階で「ラピート」とか「はるか」といった類で特別料金を払う気はさらさら無い。退屈せずに、適度に旅心を持ち、安くである。このコンセプトを満たしてくれるアクセスは地下鉄で天王寺、そこからJR快速、これが1番。

 

 まず、退屈に関しては、人の乗り降りが多いことと、1乗車の時間が1時間以内のために退屈をしない。次に適度な旅心については、阪急沿線に住む者としては、難波よりさらに南というのは通常日常行動圏外であるので適度な旅心が保てるのだ。しかも、天王寺での乗継距離は短く、経路は単純、おまけに時間調整用マクドナルドがある。このマクドナルド、プラットホームまでは改札を含めて30秒で到達出来るのある。梅田、難波の乗継ぎよりも優位に立つ理由はここにある。ところで、ここのマクドナルドはホットさせる雰囲気がある。そう、販売マニュアルには無い、大阪弁があるからだ。            

 「コーヒ、ここで飲みはりますかー」

 

 旅は出来るだけ日常性からの出発が良い。そして、チェックインカウンターに至までに徐々に高まるのが良い。「気」から「晴」の状況に移って行く心情だ。「おふくろの味」から「料亭の味への」緊張感のような・・・

 








先々月にオープンしたばかりのJAS広州便は週に3回、中国南西航空との相互乗り入れにより、約3時間余りで中国の南の玄関口に我々を運んでくれる。香港経由の入国を考えていたが、なかなかOKの返事が旅行社より無く、痺れを切らして変更をしたのがこのルートである。最終価格、往復7万円、2回払いで決着が付いたが、2名申込での価格であったので、誰かを誑かさなければ・・・・










同僚のH君も馴れたもので、既にチェックインを済ませていた。所詮、行きと帰りだけが一緒の飛行機なので、別に並んで座ることも無いし、年令的にも大方20才の隔たりがあるので、当然に旅に対する想いも異なり、却って気にすることもない相方であった。

 

 

10:20発。機内は70%の入りである。年末のシーズンにしてはちと淋しい感じがするが、ま、開設して間もないので致し方がないのだろう。サービスはそれなりに頑張っている雰囲気が伝わってくるくるもので、JALみたいな慇懃無礼な雰囲気が無くていいものであった。ビールとワインでしばしウトウトすれば、13:30、もう広州である。

 

 入国はかっての中国が、「なんやった」という位にフリーパスで通過し、空港よりリムジンバスで広州火車站に向かう。広州は今、上海と並んで盲流の坩堝で、駅前の人の群れがそれを物語っている。それ故に、治安はご多分に漏れず良いとは云えず、今日中にこの地を離れる予定であるが、その前に帰りの航空券のリカンファームをしておかなければならないので、JAS広州営業所に行き、手続きを済ませる。

 

 私のこれからの予定は、火車で二泊三日、昆明に向かうことだが、站の窓口では素気ないメイヨー(没有)の返事であった。久しぶりに聞くと、このフレーズも一種の心地さではありますが、「はいそうですか」といっている場合ではない。次の手を考えなければならない。個人旅行の宿命である。

 

 同僚のH君は飛行機で昆明に入ると言う。明日まで広州に留まっていても、切符が手に入る保障はなんにも無いわけだ。わしも、「飛行機で行くわ」という訳で、CITS(中国国際旅行社)の窓口に行き、広州〜昆明、1260元、19:55発のチケットを購入した。「えらい、出費や!」 それにしても、航空企業の自由化で多くの会社が出来たが、このチケットは雲南航空公司となっている。マークもなにやら雲をモデイファイしたもので、なにやら金斗雲に乗っていくのではないのかと、心配である。

 

 18:00に再び站前で集合することにして、それぞれの思いの所へ。とは云うものの大都会は私の好みではない。居心地の良い食堂を見付けて、ビールと青菜老炒と文庫本でほっこりとする。

 

 再びバスで空港に向かうが、本日早朝起床のためか流石に疲れてきた。空港使用税50元と荷物預かり及び保険料の20元を支払う。5回目の中国とはいえへ、毎回、ナンジャイと思う料金システムである。機内は満席の状況で、離陸したとたんに一斉に乗客の多くが新聞を拡げた。ビジネスで使っている人が多い証拠である。中国も変わったなー。

(20000円の両替で1589元)

 おしぼり、ジュース、搭乗記念のキーホルダー、搭乗記念の帽子、機内食の順で矢継ぎ早に配給がある。15分ほどしてからゴム手袋をして大きなゴミ袋を拡げながら機内を行進。まだまだサービスとはなんぞやが確立していない様が展開される。2時間ほどのフライトで昆明の空港へ。1日でこんな所まで来てしまった。飛行機はエライ!でも高い!!

 

 結構充実した空港であるが、22時を過ぎてはバスも無い。タクシーでかねてよりガイドブックで目星を付けておいた昆湖飯店にチェックイン。シャワー、トイレ共同、ツイン部屋で90元(2人)。ま、いっかー。



12月22日

 西双版納に向かう準備である。

 同僚H君とは分かれて行動ということになっていたが、ここは中国雲南省、彼とて選択枝が多く有るわけでない、さらに南に進むには、飛行機かバスの手段しかない。

 

ここ4年前からだが中国においては国内旅行の自由化が進み、いわゆる旅遊が盛んになってきた。中国人にとって、ここ雲南の地は本土最南端として人気があるらしく、シーズン中はご多分に漏れず旅行社が航空チケットを押さえてしまっているのだ。 

 

 と、云うことはー、バス・・・・・・・。

 

 路上のラーメン屋で15元の朝食。ホテルの2階に入っている旅行社で交渉だ。若い娘が二人でやっている。なんとか英語が通じるので、世間話を交えながら約1時間、やっとこさ本日14時発のベッドバスの確保をする。締めて180元+手数料20元。


 10時30分にチェックアウト。長距離バス站13時集合まで時間があるので、またまた適当なレストランを見付けて、炒飯、セロリとニンニク炒めとビールと文庫本でほっこり。いいんだなー、これが。

                             じんほん

 バスターミナルは見事なおんぼろバスの展示場だ。その中から景洪行きの表示を探す。今回、ベッドバスに乗るのは初めてである。こういった種類のバスが結構走っているのは知っていたが、実際に車内に入るのは初めてである。ボディーには豪華臥車と銘打ってあるが車内は定員34名分のベッドが2段にぎっしりと詰まった阪急路線バスサイズのバスで、一番後の席に到っては5列2段のレイアウトである。そして、私の席番号は1番後の下段、真ん中なのだー!

 

 さー、24時間720`の戦いだ。34名の客と運転手2名は運命共同体となって昆明を出発した。日本では夜行バスの雰囲気が好きで、結構愛用しているのが、せいぜいそれは10時間ほどのこと、24時間と云えば、明日の昼すぎだ。さすがに、緊張感が走る。シートは最初からほぼ寝ており、足もなんとか伸ばせる体制に持っていけるが。完全にフラットとは言い難い状況である。

    

 バスは昆明の町並みを後に、昆明湖を窓外に高速道路を南下し始める。でも高速道路がいつまでも続くはずが無いわな。料金所を通過したころには太陽もすっかり傾き始め、道路も山懐に入り始めた。ビールでも飲んでゆったりとするのが一番いい方法なのだが、何分、これからの24時間のスケジュールが読めないゆえ、小便満杯状況が恐いし、持参の食料を食べたとたんに食事休憩というのも頂けない。てなわけで、なかなか落ち着かないのである。

 



















隣のオッサンは寝てばっかりだが、わしが体勢を変える度に気を使ってくれる。同僚のH君は少し離れた席だが、隣のオッサンが結構面倒見が良いみたいだ。乗客は我々二人を除いてはもちろん中国人ばかりだ。日がとっぷりと暮れるまでは、運転手の小遣い稼ぎだろうか、集落を通過する毎に速度を落し、それらしい人に声をかけ、行き先が合意に達すれば、なんとかスペースを都合して乗車をさせ、また出発の繰り返しをしていた。補助席、立ち席の人々が何度か入れ替わった頃、バスは峠のドライブイン?に停まった。     (ベッドバスの内部)

 時刻は20時、やっと6時間が暮れたわけだ。薄暗い食堂にはボールに6品ほどの料理が用意されていた。適当に2品ほど指で注文をし、ご飯は自分でよそう。バスの動向をチェックするために同乗の客の動きは絶えずチェックをしなければならない。外に出れば焚火の周りで暖をとる人、水パイプをしている人、ぐーと腰を伸ばして寛ぎタイムである。

 さーションベンをしてまた闘いだ!

 スキットルからバーボンをごくり。寝るしかないか。

 

 

12月23日

 夜明けの薄明りとともに昨日とは微妙に違う景色がはっきりと視野に入り始めた。朝を迎えてしまえば、後はカウントダウンだ。昨夜の寝不足のお陰で結構うたた寝時間が過ぎて行く。

 

それにしても、これだけ振動が激しければ、車窓に拡がる景色を見て旅情に浸るとか、日本の将来を憂えると云った思考回路がまったく作動しなくなり、ボーとする以外に手は無いのだった。

 

 気が遠くなるほどの数の峠とカーブの繰り返しである。そんな単調な時の流れの中で思茅の町を過ぎてまたまた登りが始まり、やっこさ峠に達したときである、州(郡)境の検問所でバスは停まった。中国は国内はもとより、省(県)や州を移動するにも許可書が必要なお国である。特にこれから入って行く州はミャンマー、ラオスと接する地域である、当然に乗客のチェックも入念なようだ。一人一人身分証明書の写真と面通しをしていく。

 

 ドアが開いているのを幸いに小便タイム。背筋をウーンと伸ばしがてら、ポケットから密かにカメラを出し。フラッシュオフにして民家の影から検問所をパチリ。それを見てかH君もカメラを取り出したのはいいが、大胆にも検問所の遮断機の前で・・・・・パチリ

 ヤバイ!と思ったがあとの祭。公安の連中がバラバラと彼に駆け寄った。彼は「カメラを覗いただけや」とアピールをしたが、連中に英語や日本語が通じるわけがない。検問所まで引き連れられて押問答。私もカメラをポケットに隠し加勢するが、深入りして俺のカメラまで見付けられて、いちゃ問をつけられては適わない。多勢に無勢である。結局、H君のカメラの腹は開けられ、ナイフでフィルムが切りとられた。自由旅行の門戸が開かれて来たとはいえ、油断は禁物。ここは中国なのだ。

 

 クンミン   シーサンパンナ  ジンホン

 昆明から西双版納郡景洪までは720q、このエリアはヒマラヤ山脈が東西に走っていたものが方角を南に変えて、徐に太平洋プレートに流れ込む屈曲点にあたる。しかも、珠江、長江(揚子江) 滄川(メコン)、サルウイン川、ソンコイ川などの東南アジアにおける大河がいずれもこの地を通過している。     (ドライブ・インの注文兼調理室)





サルウイン、 滄川、長江に到ってはなんと80`間隔で平行に流れを刻み、2千から4千mの大峡谷を作り出している。そんな地域をこのオンボロバスは登りはヒイヒイ、下りは燃料節約のためにエンジンを切ってコントロールの利かないジェットコースターの様に横断して進むのであった。

 

 日本で言えば静岡を出発して、コンター1500m位を一切のトンネル無しに、南アルプス、中央アルプス、北アルプスを繋いで日本海親不知にデンして、また静岡に向かって走るようなものである。

                             

 昼近くになってからも単調な登り降り攻撃はその手を緩めることなく続いた。それにしても、もう1時を回っているというのに昼飯休憩の気配が無い。ということは、運転手君としては一気に景洪の町に到ろうとしているのではないだろうか、そうだとすれば町は近い、ということは荷物を纏めなければ、ということは身体中にまとわりついているウヲークマンのイヤホンや耳栓や眼鏡ケースや懐中電灯や食べかけのカロリーメイトを片付けなければ・・・・                        

 

 景洪の町は地図で何度も確認はしていた。この進行方向であれば、左下にメコンを従えた町が見えるはずである。何度も何度も窓外に目をやるが、拡がる景色は重々たる山また山、緑と赤土の景色である。でも心なしか人々や車の往来が多くなってきたように思うのだったが・・・・・見えた!
                  

 やったー! おもわず手で握りこぶしを作ってしまった。

                       ランファンジャン

 陽光にキラキラと輝く大きな河が見えたのだ。瀾滄江(メコン川)に違いない。時刻は14時半。気温は窓を開けても寒くない程度だ。バスはグングンと高度を下げ、滄江北路から瀾滄大橋を渡り、景洪の街に入る。雲南省最南端・西双版納タイ族自治州の街だ。飛行機なら1時間460元、バスなら24時間180元。バス止めますか、旅やめますかの選択であった。たった1時間でこの地に来ることができたのならば、これほどの感動はなかっただろう、と思うのであった。

 

 バスは3時に景洪賓館の中庭に停められた。25時間の経過は乗客を運命共同体として形作ってはいたが、流石に目的地に着くやいなや、その呪縛は一瞬にして解きほぐされ、それぞれの目的に向かって蜘の子を散らすがごとく去っていった。中庭にぽつんと残されたのは我々だけであった。そんな二人に近付いてきたのはホテルの従業員だろうか、淡いピンクの巻スカートとブラウスの民族衣装を着た南方系顔の小姐(若い女性)であった。タイ族の衣装である。再びここまでやって来たんだという震えが起こる。

                  パンナ ビングアン

 宿はガイドブックで目星を付けていた版納賓館にする。地図で見れば下車地点より徒歩で行けそうだ。棕櫚の街路樹とハイビスカスの花が気持ちをゆったりとさせてくれる。ホテルは広々とした敷地にレセプション棟を中心に平屋の客室棟が配置されている。 ツイン240元(2名)を200元に負けてもらって無事にチェックイン。一人1200円、少々お高い料金ではあるが、バス、トイレ付きで疲れた身体を労わるにはこれぐらいは張り込まなくっちゃ。

 

 部屋で荷物を拡げ、即シャワーを浴びてホットする間もなく、明日の準備をしなければならない。個人旅行の宿命です。ホテルの斜め向かいにあるCITS(中国国際旅行社)に出向き、明日のミャンマーツアーと明後日の昆明への帰りの手配をする。スタッフは4名いたが、英語を喋ることが出来るスタッフは1名、ミャンマーツアーは可能か、の質問にしても、「ミャンマー」ではなく「ベイマー」と発音するし、筆記では「麺句」と書かなければ会話が出来ないのだ。しかもアジア訛りの英語と切り刻み英語の会話で、スタッフ客共々汗だくだ。

 

 参加については、日本人は中国人と似ているからノープロブレムだという。じゃー似ていなければ何がプロブレムなのかが解らない。おそらくミャンマー入国について中国側となんらかの協定が交わされており、パックツアーに限って、指定した街にはビザ無しで観光が出来るのだろう。ひょっとして、ミャンマーに入って日本人だと露呈した場合のフォローはしてくれるのだろうか、心配である。でも、ミャンマーに入れるという誘惑は強いのだ。

 ミャッンアーへの切符は手配出来たが、問題は昆明への切符である。飛行機は昆明の旅行社での情報どおり、団体客で全て予約が入っているとのことであり、又あのバスに乗るのかと思うと溜息が出てしまうのであった。

 

 さて、明日の準備も出来たので、お次は腹ごしらえである。街角の食堂で青菜と豚肉の炒め物とビールをたのみ、やっと街並をゆっくりと観察する時間が出来た。上海や香港に比べ、人々の歩き方は緩やかで言葉も非常に柔らかい感じを受ける。ネパールの田舎の雰囲気さえ漂い、こうして歩道に出されたテーブルでビールを飲んでいると、ここが外国だなんてまったく感じなくなってしまうほどゆったりとした気分になってしまう、そんな景洪の街角であった。









12月24日

 マイクロバスは7時30分にCITSを出発。途中、市内の主要ホテルで客を拾い、街を後にする頃には10名のツアーとなった。日本人は同僚のH君と私の二人だけ、あとはみな中国人だ。近年、中国人も国内旅行が比較的自由になり、ここ西双版納も本土最南端の地として人気急増中の観光地になっているそうな。

 

そして、このミャンマーツアーも人気メニューのひとつなのだが、我々としては、その人気の煽りを食って、昆明行きの飛行機も27日にならなければ空きが無いという状況であった。

 

 バスは10分も走れば、街を抜けてもう山間部に入っていった。ユーカリ、樟、棕櫚、バナナ、茶、ハイビスカス、蘭などが見られ、ヒマラヤの南麓からアッサム、雲南を経て華南から西日本までを結ぶ照葉樹林文化圏の真っただ中にいることを実感させられる光景であり、少数民族の人達の高床式の住居を見ていると、文化人類学者のクリフォード・ギアッツが言った、自然の枠組みの中で人々が適応しようとすることにより、地域社会の性格や文化が形成されている、ということが、なんの疑問も無く受け入れられる光景が繰り広げられた。

 

 昨日と変わらない登り下りが一頻り続く。道路はむしろ南下するにつれて、路肩などの整備が整っており、国境が近いことが感じられた。

 

あちこちの山腹に焼畑の跡が見受けられる中、バスは高原状の大きな盆地に至った。これはこの地方の特徴的な地形で、バーツと呼ばれるもので、昨日のバス路線においても何回も展開された光景だった。

とにかく、山また山を越えてきて突然に諏訪湖位の本当にフラットな平原が突如拡がる光景は、驚きである。深い渓谷が地球の輪廻の中でこのような地形が形成されたのあろうか。

                  

約2時間ほどでバーツの端に位置する(もん)(はい)の街に着く。道端の露天ではハニ族やプーラン族の人達も見ることができる。ミニバスは象山新街の公衆厠所の近くに停められた。今回結構目に付いたのだが、公衆便所の設備が良くなってきていることだ。公衆便所は鼻で探せ、と言われる中国では、近代化に向けて、こんな辺境の地においても有料トイレを建設しているのだ。5角を便所の前に陣取っている伯母ちゃんに渡して中へ。流石にお金を取るだけのことはあって、水洗で掃除も行き届いている。これなら気持ち良くウンコができるわい。                                   

 

あーサッパリした。

 添乗員のニーチャンにひっついて食堂に入る。朝飯だ。米線と呼ばれる小麦のうどんである。結構いける味だ。素うどんの上に、ピーナッツの揚げたのや高菜の漬物、葱、もやし等の好みのトッピングを乗せて食べるのだ。

 高菜の漬物に至っては、日本の物となんら変わりが無く、昼食に出された卵豆腐とともに日本の食文化のルーツがここにあ   ると言われてきたことがよく解るし、食材の一つ一つをとっても、壮大な文化の流れがあることを感じずにはいられなかった。「朝からうどんで、こないに大層なこと言うな」というお叱りの言葉もなく、バスはさらに南に向けて走り始めたのだった。

 

 バーツの端からさらに峠越えに入り、11時頃に国境の街、打落に到着となった。小さな川を渡ればもうミャンマーのようだ。ツアー客は取り敢えず、この地の名産のミャンマー製の玉の腕輪や首飾りを売る土産物屋に放り込まれる。この間に添乗員はミャンマーへの車の乗入れと乗客の入国の手続きをしに行ったようだ。中国人達は身分証明書を添乗員に託していたが、我々2名にはなんの沙汰もない。不安がよぎる。どうゆうシステムになっているのかが理解できないことは、こうゆう場面では恐怖に繋がるものだ。

       

 約1時間後にバスはミャンマーの国境に向けて動き始めた。ここまで来たら腹を括らにゃーしょうがない。200mほどバスは動いて橋の手前で中国側の最終チェックが行なわれた。公安が車内に入って来て、一人一人の顔を見て回る。「わし知らんもんね、添乗員の言うとおりにしてるもんね」といった顔をしているものの、緊張感は高まってくる。  橋を渡ってさらに検疫局らしきチェックがあり、乗客にはなんの薬か知らないが、白い錠剤4粒と濡れティッシュが配られた。なにを意図しているのかまるで解らない。

                        

 この薬を飲めということなのか。なんの薬なんや。眠り薬で、国境の景色を覚えさせないための記憶喪失剤か記憶下剤なのか、はたまたオームのLSDか、恐怖が恐怖を呼ぶ。この濡れティッシュはなんなんや。お前の顔が汚れているから拭けということなのか、ミャンマーでぼた餅を食った時に手がねとつくから、拭けということなのか、・・・・  恐怖が恐怖を呼ぶ。おまけに検疫手数料なのだろうか10元まで取られる。      

 こ

れはもっと恐怖だ。

 

 次は50mほど距離を置いて中国国境表示を通過、すぐにミャンマー側の手続きであるが、さきほどの中国側のチェックでは、運転手などは公安と顔馴染みらしく、ミカンを渡したり、煙草を渡したりの賄賂攻撃で結構柔らかい雰囲気であった。しかし、ここにおいてはそんな雰囲気も無く、無言の手続きが進められている。それがまた、恐怖の対象になってしまう、私であった。

 

 ここでは、背中に消毒液のタンクを担いだ兵隊が一本、一本のタイヤにノズルを向けて消毒を始めた。「なんやなんや、ここは潔癖症の国か!」てなことを言うてる場合ではない。横にはカービン銃を肩にした兵士がいるのだから。しかも、迷彩服を着た兵士は、「いつでもランボーと闘ってやるわーい」という雰囲気である。消毒をしている間に入国手続きが行なわれた様だ。チェックは乗客の人数合わせの簡単なもので、バスはミャンマーの地を晴れやかに再び走り始めた。川添いに10分ほど走れば最初の国境の集落、モングラーだ。駐車場には西双版納からのマイクロバスが10台ほど既に停まっていた。全てが観光ツアーである。なんでこんな辺鄙な所が人気あるんやろ。 

 

 その答えの一つのヒントが添乗員より渡された。この添乗員君、英語が全くといっていいほどに駄目で、国境を通過する時にも、我々に口に指を当てて、be silent!の注意を与えただけである。要は日本語を喋るなということらしかったのだが。その彼がこんどは頻りにオプショナルツアーの勧誘をしてきた。内容は理解出来ないが周りの雰囲気オプショナルツアーであることは解る。内容を理解させるのに中国人向けのパンフレットを取り出して、百元、百元と訴えてくる。人妖劇院と書いてある。なんのことか解らなかったが、隣のインテリ風のおばちゃんが、多分、衣装からして台湾か香港人かな、    

「man・lady・change」と単語を並べた。凄まじい英会話である。

 

 「あああああ、オカマショウーのことかいな、おばちゃん」

  トイ トイ  トイ

 「対、対、対、(はい、はい、はい)」

 なんとか通じるものである。オカマショウーについては、そんなものが国境の町にあるにはあるとガイドブックに書いてあったことを思い出した。それにしても100元とは箆棒な話である。でも見てみたい。見たい。見さしてほしい。悲しい性である。なるほど中国人が大挙して押し掛ける訳の一つがこれなのだった。中国ではこの手のショーはご法度なのだ。

 

 熱帯地方特有のこの景色の中で、どこにそんなショーをする場所があるというんだ、と思っていたが、体育館みたいな所に案内された。ショーは既に始まっていたが100名位の客がいるだろうか、外の雰囲気とあまりにも落差がある光景だ。キンキラキンの衣装を着た泰人のオカマが中央の舞台ミラーボールと赤や黄色のスポットライトを浴びて踊っているではないか。泰のオカマは今流行の日本のニューハーフなんてものとは格が違い、正味正松性根が入ったオカマである。この世に生を受けた時から食べて行くがためのオカマである。性根がちがう。手入れが違う。ぴかぴかに磨きがかかっているのである。

 

 それにしても、わし、なんで24時間もバスに乗って、「白樺ー青空ー」の曲に合わせて踊る泰人オカマショウーをミャンマーで見なあかんのやろ・・・

 

 約30分ほどのショーは、入れ代わり立ち変わりの音楽に合わせたダンスとコミック寸劇などで構成されたものだった。動きによっては、彼女?達の明らかにシリコンと分かるオッパイがポロンと衣装から出てくるのだが、その瞬間の中国人の反応がなんともおもしろい。

 

とにかく緊張をしているのだ。寸劇の相手を指名するためにチョット年増の3枚目オカマが客席に降りて来た時なんぞは、観客は逃げ回り、パニック状態となる。1/3位の客が、さも催した風を装ってトイレに逃げ込むのだ。シャイなのである、というよりはこんな状況は文化大革命を潜り抜けてきた連中には、信じられないことなのだろう。日本のストリップ劇場で俎ショウーなんて見た日にゃ、卒倒をしてしまうのでないやろか。

 

 

 おばさん連中も結構入場をしていたが、その中の一人がビデオカメラをまわしていたのだが、突如ミャンマー警察が客を掻き分けて入り、ビデオを取り上げ、フィルムを召し上げてしまった。いやはや、気は許せないのだ。

 無事にワンクールが終了となって、出演者は入口まで見送りに出てきた。白日の元にさらされたオカマは観賞に耐えられるものではないのだが、10元で記念撮影が出来るということで、これまた、「おまえ先に撮れよ」「イヤ、おまえが先に撮ったら俺も撮るわ」「そないなこと言わんと、ま、自治会長からお先に」と言った具合のやり取りが展開された。












とはいうものの、一人が始めると、これまた収拾のつかないぐらいの踊り子の取合になり、私はと言えば、回りの高床式が点在する集落の景色とこの光景の落差で収拾がつかなってしまうのであった。

 小1時間ほどの自由時間があったので、さっそく気になっていた隣接する集落に向かった。竹で編んだ垣根が続く赤茶けた地道には人影は無く、カウベルを付けた牛や鶏がうろうろしている昼下がりであった。

 

各家には人の気配が有るには有るのだが、高床式の家ゆえ目線が届かず、いつもの調子でどんどん他人の家にお邪魔するバージョンが出来ない。

駐車場に再び戻ってきた時には、20台位だろうか、マイクロバスが押し合いへしあいであったが、そんな喧騒の中にも流石に敬虔な仏教国ミャンマー、袈裟を着た小坊主も多く見受け、お寺を抜け出してきたのだろうか、露天の駄菓子屋でトコロテンを買い食いしている光景が微笑ましかった。

 

 バスはもと来た道を引き返し、再び国境で手続きを行い、今度は中国側が作った深さ10a位の消毒液の入ったプールを通過して無事に中国に再入国をする。不思議なもので、なんと無くホットとするのである。恐らくミャンマーに対する情報が自分自身に蓄積されていない勢なのだろう。緬中界碑とパンフレットには書かれた国境碑で記念撮影。お次は民芸土産物店。何処も観光産業の仕掛は同じだ。









 猛海の街に入る手前に景真八角亭なるタイ族仏教建築の中でも最も精密ですぐれたお寺が小高い丘にある。ここは、本日の最終観光コースとして設定されている。








1701年に建造されたそうだが、お寺に到る参道の両側はタイ族の露天がズラーと並んでいる。

 

焼き鳥、バナナ、洋なし、砂糖黍、竹に赤餅米を詰めて焼いたもの、粽、竹細工、彫り物の置物などなど・・とにかく、所狭しと露天が並び、呼び声もにぎやかだ。そんな喧騒を避けてお寺の裏手に入ればそこは静まりかえったタイ族の集落だ。

 

 まるで時間が止まっているかのような空間が拡がっている。煉瓦の塀で区切られた狭い通路は迷路のように村の中を走り、入母屋の黒い屋根は一重二重に青空を区切り、振り返れば八角亭の三角屋根が見える。人の気配はあるにはあるのだが、視界からふーと消え去ってしまう。いつか、どこかで見た映画のシーンのようだ。なんて静かで安寧感のある空間であることか。

 

 景洪の街に帰りついたのは6時過だ。さっそくミャンマー入国の祝杯を小さな飯店でするが、さすがに連日のバスでの行動は、身体が早くベッドに会わしてくれ、と言っているようだ。版納賓館への帰り道でディスコを見付たので、何事もお勉強というわけで、10元を支払い、入場してみる。そう言や、バスを降りるとき、添乗員君はメリークリスマスと言ってたっけ。クリスマスイブのディスコはどんなかなー?

 

 大音響である。とにかく大音響である。日本においてもディスコなんぞはここ20年位は敷居を跨いだことがないだけに、一時巷を賑わしたお立ち台娘の情報位でしか比較検討が出来ないが、雰囲気的なは10年位の時差があるような感じがする。ただ、この場で若者達ちが放つパワーとファッションは、ここが雲南省の一番南端に位置する小さな街の空間だなんて、とても信じられないことだった。

 

カウンターで青島ビールをラッパ飲みしながら、隣に座ったドイツ人のニーチャンに、お前この光景どない思う、と聞いてみたが  「un bileavable!」という答えが帰ってきた。

 

そやわな、誰が見てもこれが中国かいなと思うわな。しかし、これもミャンマーの例と同じで、単にこちらの持合わせている情報が古いだけの話である。中国へは今回で5回目、しかも極力、バスや汽車で移動する旅行をしている私でさえこの戸惑いである。西欧人には、日本人はまだ丁髷を結って、刀を持って歩いている民族であると思っている輩もいるのと同じで、中国に対する日本人が持つイメージも似たりよったりではないだろうか。版納賓館への道すがらそんな事を思うのであった。 

 

 それにしても、景洪の街の回りは「大地の子」そのままの農村風景。あの畔道をあの子達はあのディスコファッションで帰っていくのだろうか。                  

                       

12月25日

 

 同室のH君は今日は何処まで行ったやら。起きた時にはもう居なかった。そら20才ほど歳が離れてるんやも、元気なはずや。さて、おじさんはと・・・・

                                         いつものようにお湯を沸かしてコーヒーを一杯。テラスに出てみれば、青々とした畑越しに 滄川(メコン)が見る事が出来る。雨期になればここから、ラオス、ベトナム国境を経てタイにまで航路が開設されると聞いていたが、この景色を見ていると夢は拡がるばかりだ。          

 

 本日は14時からまたまた恐怖のバス旅行である。それまでは別段予定はない。近くの露天店にて朝食。日差しが柔らかい。クラクションの音も、隣に座る外人のオッサンも、蠅も気にならない。なにも予定を作らずにひたすらボケーとすることの心地よさ。

 

どうも最近はこのパターンにはまって来たようだ。中国の古典「易経」によれば「観光とは名所旧跡を見て回ることではなく、国の光を観ることなり」と記してあるそうな。そうゆう意味では、こうして道行く人や空や花を見ているのもまんざら怠惰なことではないのかもしれない。その土地の人達と出来るだけ同じリズムをとってこそ、その土地の光が見えてくるのではないだろうか。

 

 街1番のホテル景洪賓館に行き、カフェテラスでお茶と文庫本とトイレタイム。サッパリして自分のホテルに戻りウツラウツラしていると、息せき切ってH君が戻ってきた。西双版納から南へ30`ほどのガンランバの街に行ってきたそうな。元気だ。

 

 昼飯は近くの飯屋で済ませバスターミナルに向かう。来るときに乗ったよりは多少ましな豪華臥車と銘打ったバスであったが、乗車の前にサービス合戦の結果だろうか、ビニール袋に入れられたミカンとパンが渡された。しかし、これは妙にこれからの旅程の困難さを暗示しているような気になるのであった。

 

 競争合戦だけならばいいのだが

 

  滄川に別れを告げた道は一気に高度を稼ぎ、1200m付近の等高線を昇ったり降りたりを繰返しての走行となった。座席レイアウトは下段2人−通路−2人、上段両側1人配置の、往路のときよりは格段にゆったりとしたもので、私の座席は下段、中央付近、左窓側で、今から24時間を過ごすにはまずまずの環境であった。

 

シートは完全に身体が伸ばせるというほどではなく、Wの字を上からギューとプレスしたような形で凹凸があり、足を伸ばし切れば、背中が若干ずり上がるいった代物である。そこで、タオルやセーター類で凹凸修正を行い、眼鏡ケース、懐中電灯、ウイスキースキットル、おやつ、ウヲークマン類を配置してこれからの修業に備える私であった。修業するぞ。修業するぞ。

 

 運転手は2名、若手と熟練工の組合せと云ったところだ。若手君の運転はさすがにパワフルで、窓側に居ることの恐怖を感じる位の運転である。一方、熟練君はレオナルド熊に似たおっさんで、運転は丁寧でオンボロエンジンを慈しむようなミッション操作で、熊さんに交替したとたんに安心して眠りに入れるといった状況であった。

 

 俺の前にはデンマーク人の学生がいる。走行中に西欧人がよく読んでいるガイドブックを読んでいるが、この揺れでは絶対に読めるはずがない。後からカマをかけて、何処のエリアを読んでるんや、と声をかけると、「so so(ぼち、ぼち)」と抜かしやがる。カッコ付けるんじゃねえ、こうゆう場合は東洋の禅に限るのじゃ!

 

 デンマークを出て2カ月半だそうだ。昨年に行ったデンマークのことを喋り始めると、「うん、知ってたよ」と言う。「なんでやねん?」と言うと、「だって、お前さんのトランクにシェラトン・コペンハーゲンのステッカーが貼ってあったもんね」と言う。寡黙なポーズをとっている西欧の連中も、結構人間ワッチングをやってんだ。

 

 何回目かの休憩の後、8時頃かなり大きなドライブインにバスは停車した。行きと同じ星空が煌めいている。食堂に入り、タライみたいな鍋に5品ほど用意された中から2品を選び、自分で鍋から飯をよそって掻き込む。複数で旅をしていると食事時は有利だ。デンマーク君は1品と飯を食っている。すぐさま、手招きでこちらのテーブルに呼び、3品おかずの夕食が始まったのだった。

 

 さー、後はウイスキーをグビィと口に含み、目を瞑るだけだ。

 

 

12月26日

 

 1時か2時ごろだろうか、エンジンが止まった。トイレタイムだろうか、懐中電灯を点けて椅子下の靴を探し、外に出てみる。峠手前の尾根筋にバスは停まっている。時折、トラックが通り過ぎるだけだが、日本の地方の主要国道なら解るが、中国のこんな地方のこんな時刻、過疎地を絵に描いて日捲りカレンダーにしたような状況であるのに、輸送トラックが走っている。駆け足で国が走り始めている証拠である。

 

 呑気なものだ、エンジンルームを開けてチェックが始まった。燃料系統のパイプを外し始めた。乗客は揺れの無い静けさをこれ幸いに静かな寝息をあちこちであげている。結局バスは明け方になっても、その唸り声を上げる事無く、街道脇に停まったままとなった。

 明け方、運転手は通りがかりのトラックに便乗して行ってしまった。6時ごろ再び車の修理工らしき人と耕耘機に便乗して帰ってきた。油に汚れた彼の手には、スパナが5本ほど握られていたが、これしきの工具で修理が出来るとは思えない。それにしても、バスの網棚や横腹のトランクからは古いパーツが出てくるわ出てくる。修理、修理の連続でごまかしながら走っているのだろう。

                           

 パンを配る余裕があるんやったら、パーツ位は替えとけよ!

 結局10時ごろ通りがかりのトラックを停めて、ワイヤーによる牽引と相成った。ゴトンと動いたとたん、ワーという歓声と拍手が上がったけれど、バスは耕耘機に追い越されながら、やっとこさ峠に辿り着いた。既に20時間が経過している。

          

 小さな食堂のような所に入って炒飯を注文する。10元もぼったくられたが、地獄に仏である。腹が減ってたんですわ、とにかく。

 

それにしても、薪だけの竈と中華鍋だけでこんなにおいしい炒飯が作れるなんて、中華料理は偉大だ。

              

 バスの中で本を読んだり、食堂の前の空き地で日向ぼっこをしたりで時間を潰していると、なんとか修理が出来たらしい、運転手より押し掛けの司令が乗客に下った。バッテリーは昨夜の内に上がってしまっていたのだ。20名位の男どもで押し掛けが始まった。バスは濛々と白い煙を上げながら峠を下って行く。

                  

「おいおい、そっちは景洪の方やどー」

 止まっては押し、押しては止まりの光景が5回程展開されたが、駄目だった。その内、押す乗客も一人減り、二人減りで、最後には10名程になっていた。中国人は車を押す際には、さしたる掛け声が無い。日本人二人は、「せーの」の掛け声をかける。最後の方では、この「せーの」が結構受けて、「せーの、せーの」の掛け声が雲南の山並に虚しく散っていくのだった。

 

 回りの中国人乗客の状況であるが、別段、あわてる事もなく、「また故障かいな、ま、ぼちぼち行こーや」といった雰囲気である。中国4千年の時の流れのひとこまだ。

 

ま、当方も30日昼までには広州に着けばいいのだが、このまま行けば、今回の旅はバスに乗りに来たようなことになってしまう。             

 

 それにしても、ここは何処? 

 

 場所は昆明〜景洪の中間地点より少し景洪寄りのところらしい。地図から判断する限りでは中間地点の墨江の街までは3時間位だろうか。既に無量山脈と哀牢山脈は越えているので、最寄りの大きな街、墨江の街に到れば元江(ソンホイ川)を越えて比較的穏やかな地形となる。約12時間もあれば昆明の街に入れるであろう。それにしても、バスを乗り換えなければ。

 

 バスの中でウトウトしていると、同僚のH君が息せき切って入ってきた。」

「石田さん、昆明行きのバス止めたで!」「よっしゃー!」行動開始だ。

 

デンマーク君も誘うが、流石にあと10ヵ月ほど旅するだけのことはあるわ、「残ります」との返事であった。結局、35名ほどの乗客の内、既に他のバスに乗り換えた人は5名ほど、そしてこのバスに乗り換えた人は5名となった。

 

 さて、このバスであるが、どないに説明したらええかいな。

 

 行き先は確かに昆明となっている。中は二人掛席が両側にズラーと並んでいる。ズラーとです。座ってみる。足がほとんど動かない。あたしゃ、体型的にはきわめて平均的な日本人であり、特段足が長いといった訳ではないのに、この様である。この姿勢で更に12時間というのは、耐えると言うよりも、拷問に近く、恐怖で身体の震えが込み上げてきそうになった。

 

 勿論、前のバスの払い戻しは無い。新たに50元の運賃を払う。飛行機に乗れば460元1時間。片や180元+50元おまけに40時間。泣面に蜂、鼻水に下痢、鼻づまりに便秘、にきび顔にデンボ、近眼にメバチコ、乗り間違い地下鉄にサリン・・・・    

   ええええい!こうなったら何でも書いたるわい。

 

 さて、バスであるが昼間は街道添いの集落のそれらしい溜り場で若干スピードを落し、客を拾いながらの走行である。乗車区間も一駅、二駅の客もいて、結構、空席の変化があり、その都度荷物を抱えて、出来るだけ前の方に移動をするように心がけた。努力の甲斐あって3時間後位には運転手の真後の席を確保することが出来た。

 

発展途上国のバスの多くはエンジンが運転手の真横にあり、そのフード部分が一等席をどっかりと占拠している場合が多い。このバスもご多分に漏れずそのタイプである。故に、運転手の後の席が客席では最前列ということになり、エンジンフードの上には、これ又ご多分にもれず荷物がどっさりと載っているが、なんとか足を投げ出すことが出来るのである。地獄に仏、下痢の時の便秘、遅刻の時の職場1時間スト、乗り過ごした地下鉄にサリン、研修の時の地震(ちとこれは不謹慎か?)・・・・・なんとか今夜は耐えられる状況が出来たのであった。 

                                    

 ところが、日が陰るとともに気温はどんどん下がり始めたが、乗客の人息でフロントガラスが曇るため、運転手は横の窓を開けて走り始めた。もちろん、こんなバスに暖房やウイドデフロスターなる装置がついている訳が無い。上は十分に着込んでいるのでなんとか凌げるが、下はパンツ、パッチ、ズボン、ジャージの4重奏にもかかわらず、ボンネットにあげた足が寒い、寒い!地獄に仏であったが、その仏さんは北国育ちであった、とでも言っておこうか。   

 

 7時ごろ墨江の街に到着だ。ほぼこちらが予測をしていた時間に到着だ。ここでも客はかなり入れ替わり、交替運転手用ベットの横の席が空いたので、おもわず靴をおいて席を確保し、中央部でほとんど不貞腐れ顔で瞑想状態に入っていたH君を呼ぶ。まんま、おばちゃんの世界であるが、一人だけ幸せになってはいけないのである。

 大きな社員食堂のような建物の横にバスは停められて、客は三々五々、食事を摂り始めた。例によってタライに入れられたおかずを3品ほど身繕ってテーブルについた。バスの運行リズムもほぼ把握出来たので、ビールもついでに飲むことにした。なんとか明日には昆明に到着出来るメドがついたという気持ちも手伝ってのことだ。

 

気分的には随分楽になっていたのであろう、久しぶりにビールと共におかずを味わいながらのささやかな夕食であった。その内の一品は、見た目は酢豚であったが、どうも牛か豚の皮下脂肪の塊の料理で、残念ながら口に合わずに、その多くを残して食事を終わった。

 

 席を立とうとした時、なにかしら視線を感じた。見れば小汚い小僧がじっと俺の目を見つめて、何かブツブツ言っている。衣類は汚れているが、乞食ではなさそうだ。顔つきはチベッタン系である。どうせ金の無心であろう。しかし、私は金の施しをしない主義である。私も貧乏だから。席を立って歩き始めると、待ちかねたように彼はポケットからビニール袋を取出し、厨房の方を伺いながら用心してテーブルに近付いた。

 「なあーんや、残り物が欲しいんかいな、。これも入れたるわ。」と他の皿に残った物も同じビニール袋の口に持っていくと、これで充分、といった毅然とした態度で去って行った。少し、呆気にとられる状況であったが、暫らくして考えた。

 

ひょとして俺は彼のプライドを傷つけたのでは、と。共産圏には昔、乞食は居ないと言われた。開放改革の道をなりふり(俺の目にはそう映る)構わず進む中国、いくら中庸の精神を唱えても、人の欲望は官僚にコントロール出来ない。その歪みの中で這いずり廻る弱者。でも弱者には弱者の意地みたいなものがあるのだろう。おかずを多く残した後めたさと引き替えに要らぬお節介をしてしまったみたいだ。彼の後姿はけっして物請いのいじけた姿ではなく、しっかりと足を大地に付けた歩みであり、幸多かれと祈らずにはいられなかった。

 

 バスは再び動き始めた。最終セクションだ。頑張ろう!なぜか少年を見て奮い立たされるものが出てきた。オンボロバス2泊の旅ぐらいなんじゃい!

 

 日さえ替われば、なんとかカウントダウンが出来る。足が伸ばせるだけでも幸せだ。寒いがボンネットの上に靴を脱いで足を上げてうとうととする。2、3時間ほど時間が経ったろうか、なんと足元がほの暖かいではないか。エンジンの温もりである。地獄に仏であったが、その仏は北国育ちであったが、冷え症でホカロンを持っていた、とでも言っておこうか。しかし、その内に、ほの暖かさが適度な暖かさに変わり、さらに熱くて足が置けなくなるまでには、さほどの時間を要しなかった。地獄に仏であったが、その仏さんは冷え性でホカロンを持っていたが、そのホカロンが異常燃焼して火傷をしてしまった、とでも言っておこうか。

 

 オーバーヒートである。おいおい、又かいな。やめてーな。

 

 幸い、修理は馴れた手つきですぐに行なわれ、再びエンジンにボンネットが被せられ、バスは何事もなかったように走り始めるにはさほどの時間を要しなかった。   

 

 あー、よかった。びっくりさせるなよー!

 

 しかし、オーバーヒートは直り、再び硬直した身体で残りの時間を過ごさなければならなかった。「いま何時ごろやろ」時計も懐中電灯も持っているが、こうゆう状態の時は、少なくとも夜が明けるまでは時計を見ない方がいいのである。冬山の辛い一夜を何回も過ごしてきた知恵である。ふと、横を見るとH君は長々と足を荷物の上に投げ出して寝ているではないか。確保してやった席は前に位置するとはいえ、補助椅子的な構造でおまけに荷物に埋もれるような状況であったはずだ。ところが、それらのマイナス要因は、この状況ではプラス要因となり、上半身は横の荷物にもたれかかり、下身体はすっぽりと荷物に埋まり、風が当たっていないのである。地獄に仏であったが、その仏さんが北国育ちの冷え症でホカロンを持っていたが、ポロンと落としてしまってが、通行人がそれを拾ってニンマリしているとでも言っておこうか。                                                

  いつまで続くんや、このギャグは。

 

12月27日 

 寒さの為か浅い眠りの連続であったが、ふとフロントガラスに目を遣ると外は真っ白ではないか。霧である。視界は10m位だろうか、センターラインと街道添いの樹木に塗られた真っ白な防腐剤だけが目印となる。センターラインのある道が懐かしい。流石にスピードを落としての走行なので寝る分には快適な環境である。それにしてもこの霧はなんなんだ。霧が発生するのは水と温度差が必要である。地形は明らかに平野部に入っている。

 

「そうや!大きな河か湖があるはずや。」

 

 懐中電灯を取り出して地図を拡げる。やっぱりそうや。昆明湖があるではないか。ついでに時計を見ると5時だ。「運ちゃん、ゆっくりでええで。なんぼ遅そ着いてもええで、事故だけは起こさんといや。」偽らざる気持ちである。

 高速道路に入った。やったー。朝ぼらけの中、大きな街の黒い塊が近付いて来た。バスは6時に北京路の昆明汽車站に滑り込んだ。25日14時に景洪を出発して40時間。旅は終わった。なんとも言えない虚脱感だ。

 

 米線を食べた後、早朝の街をぶらぶらと昆湖飯店に向かう。来たときと同じツイン一人45元でチェックインをする。H君はシャワーを浴びた後、昆明郊外にあるカルスト地形では国内でつとに有名な石林という所へ出掛けていった。

 

私目はといへば、この頃どうも観光地が苦手で、あまり感動をすることがなくなって来たので、ご遠慮をする。それにしても寒い、今日は体を労わってやらなくては。兎に角ベッドに潜り込むがなかなか寝付けないのだ。ベッドが揺れていないからだろうか。

                   

 ひと寝入りしてから、昼食をとりがてら公共バスで小西門に向かう。中距離汽車站で14時30分発の温泉行きチケットを3.5元で購入。温泉という名の町であるが、「天下第一」とうたわれる安寧温泉というのがあり、丁度、大阪で言えば有馬温泉みたいな位置付けになるだろうか、昆明の南西40`、1時間ほどの所にあるのだ。バスは高速道路を経由して静かな山懐に入っていった。 (昆明市内)

 

 バスを降りて道なりに暫らく、洞窟見物や魚料理の屋台船などが浮かぶ河添いに進と、橋のたもとに温泉賓館なる立派な建物があった。

 

フロントで風呂だけの使用を申し込むが40分で50元である。

 

一瞬、申込を怯んでしまうが、ここまで来て700円をけちるのは後世に禍根を残すことになり、ひいては一観光客として中国経済の発展に貢献する機会を・・・・・、ぐちゃぐちゃ言うてんと、はよ服を脱げ!

 10畳位の個室が廊下添いに並んでいるが、中は天井の高い、陽光がよく入る白タイル張りの気持ちの良い浴室であった。脱衣用の衣類フックやハンガーは3つ備えられているところを見ると、定員3名で50元なのだろう。白衣を着た案内嬢はなかなかの美人で、ドアを開けてくれた前にはバスタオルを敷いたベッドがあったので、どぎまぎしてしまうおじさんであった。     

 

 さて、お湯を張ってもらうのだが、湯槽は1.8×3.6mの大きな湯槽を備えており、そんじょそこいらの蛇口では時間がかかってしまう。ましてや給湯も40分の時間カウントに入っているとすれば、これは日中友好関係にヒビが入りかねないわけだ。

 

しかし、ト・小平ちゃんは忘れてはいなかった、おねーさんはT字型のバルブ開具を持ち出して、床の止栓を開けると、湯槽の横腹に開けられた直径100_位の穴から、一気にお湯が出始めた。あれよあれよと言う間に湯槽には透明なお湯が張られたのであった。

 

 おねーさんは出ていった。湯槽につかる。柔らかい陽光が部屋に差し込む。40時間のバス旅行の疲れがお湯に溶けてて、脱け殻の身体がぷかんと浮かぶのだった。

 

 再びバス停に戻り、バスを待つ。軽四のミニタクシーで高速道路まで行く手もあるようだ、しきりに客引きの声を受ける。湯上がりのほてった身体には川を渡る風は心地よく、バスに乗ってからというものは、小西門につくまでは居眠りの連続であった。

 

 中途汽車站より市内バスは時間がかかるので、ここは一発タクシーだ。12元で昆湖飯店へ。17時30分着。夕食はH君としようと階段をかけ昇り部屋に入ると、荷物の片付けをしていた。                 

 

「また、どっか行くんか?」                           

「大理(ダーリー)へ行こ思もてますねん」                    

「なにー!また、夜行バスに乗るんか?」    

「へい」

「あさっての朝には帰ってきますわ。会われへんだら、広州の飛行場で会いましょう」

「お前、今日は朝から一日かかってバスで石林を往復してきたんやろ・・・・。 
わかった。気いつけて行きや」

 

 大理と言へば夜行バスで12時間だ。

 

明日の朝到着してすぐ1日観光、、また夜行バスでとんぼ帰りのスケジュールである。とても、おじさんには付いていけない話だ。    

 おじさんは寝るのだー!

 

 

12月28日

 とにかく睡眠ということで、ひたすらベッドに潜り込む。朝起きて温度計を見るが室温9度である。流石に標高1900m、どこが「昆明は春城とよばれ・・・」なんだ。  

 喉がいたい。風邪気味である。

 

 でも、おじさんであってもじっとはしていられない。貧乏人の貧乏症というのはどうもいけません。

 

 まずは、ウオシュレットがある昆明桜花暇日酒店(この名前のホテルか解りますか。世界的なチェーン店ですけど。答は巻末)に行く。さっぱりして、路地裏の市場に向かうが、並んでいる食材の数々は、豆腐、こんにゃく、納豆、たくわん漬物、高菜付け等々、改めて日本の食のルーツであることが頷けるものばかりであった。

 

 百貨店探索をするが、流石に雲南省の省都だけのことはあり結構大きな店が点在している。ただ商品の並べ方は矢張り中国だ。

 

爪きり、缶切り、時計、石鹸、パンツ、煙草・・・・一つのショーケースに入っている。一流の百貨店ですらまったくコンセプトの無い並べ方をしているのがおもしろい。







                         

バイク売場を覗いてみる。ヤマハ90CCの商用車が6500元→78000円、カワサキの125CCのスポーツタイプで9500元→114000円である。

 

なんでやろ、日本よりかなり安いのである。4輪車もしかりであるが、外国で損して、日本でその穴埋めをする。日本のメーカーもこんな商売してたらあかんわ。3軒ほどの探索を終えた後、遅い昼飯を裏通りの食堂でとる。

                         

 時刻は2時過ぎ。丁度、客が退けた後の店員達の昼食時間であった。中国の店舗には兎に角店員が多い。間口2間、奥行3間ほどの店にもかかわらず、店員は10名ほどいるのだ。

 

おそらく地方から出てきたのであろう、15、6才の女の子達である。さすがに若いだけあって、すさまじい食欲だが、取り敢えずは食べられるだけでも良いのだろうと、思われる光景であった。   

 

 そんな時間帯に注文をするのは気が引けたが、厨房に入り、適当な食材を指差して、野菜炒めを作ってもらう。好物の野菜炒めとビールと文庫本があれば、何処でもいい。時折町行く人々を眺めていると、いつものことであるが、自分が今、何処にいるのかさえ忘れてしまうほど、気持ちが現実から遊離してしまい、また次ぎなる旅行先などを夢想するのであった。

 

 夕刻、ホテルの廊下で景洪からのエンコバスで一緒だったデンマーク君とバッタリと再開。やっぱり、同じ穴の貉、泊まるホテルは同じようなところだ。笑ってしまう。聞けば、結局バスは修理をなんとか終え、50時間かかって昆明に着いたそうな。

       

 「YOU DID A GOOD JOB!]と言うと、             

 「50HOURES IS ENOUGH GO BACK MY HOME BY   AIR.CHINA IS GREAT!」と、大笑いした。

 

 夜、深川に住む大西さんとやっと電話が繋がり、明日お邪魔することにする。

 




12月29日

 

 睡眠が足りたのか、身体は大分楽になったようだ。近くの食堂でワンタンスープの朝食を済ませ、部屋に戻ると、H君が帰ってきた。本日の私の予定を告げると、H君も広州行きをキャンセル、深せん行きのチケットに交換をする。と、言うことで、深 行きは17時発なので15時ホテル集合ということで再び解散。

 

 11時に昆明博物館に入る。3フロアーあり、上から坑日戦線に関する資料展示、化石や土器の展示、少数民族の資料の順で展示されている。

 

1937年に起こった溝橋事件が発端となり日中戦争は1945年の日本無条件降伏に至までの8年間に渡って続いたのだが、今回旅したエリアが真さにその地なのだが、ミャンマー北部と雲南省においてその戦いが繰り広げられたのだ。

 

 2時間ほどの見学の後、外に出てみると、博物館の敷地内に絵画店が目についた。喫茶店もかねていたので、休憩のつもりで中に入ってみると、理知的な雰囲気の伯母さんが達者な英語で応対をしてくれた。版画が多く飾ってあるギャラリーで一際目を引く版画が何枚かあった。

 

「遠方」「月光曲」「蘆笛」などの題名がついている。中国らしくない色使いと感性をもった作品だ。じっと見ていると、伯母さんが画集を持ってきてくれた。  

「李 忠翔」版画集と書いてある立派な本だ。中国美術界の重鎮らしい。やっぱりな、俺も結構見る目があるわ。ひょとして、ひょっとして、手が届くかもしれん。

                          

「伯母ちゃんこれなんぼ?」「2800元(33600円)」

 やっぱりな、俺も見る目があるわ。

 

「VISAカードでもええよ。これより後刷りの作品は日本の徳島県の相生森林美術館に展示してあります、でもそこでは売ってないよ」と商売上手の伯母さんは攻めに入ってきた。

 

あ攻められなくても充分に魅力を感じる作品であり、こんなことは初めてであるが、そこそこの金子を払ってもいいな、と思わせる作品であった。

 



 結局、30分位で2800は2000にまでさがった。いままでの経験から1500位にはなろうかと思われた。でも今の財政状況ではちとシンドイ。結局、画集を50元出して購入してその場を去った。しかし、これは大阪に帰るまで気になり続けることとなったわけであるが、ほんまにこんなことは初めてです。芸術が人に与えるインパクトのすごさを思い知る経験でした。

        

 ホテルでH君と落合い、昆明机場(飛行場)へ。国際空港であり、ここから香港やバンコックへも結構短時間で移動が可能であり、ちなみにバンコックまでは片道で26000円である。そんな情報は今の私にとってはちと毒ではあーりませんか。

 

 さていまから乗る飛行機は中国南西航空である。たしか昨年にも南寧からしんせんに向かった時もこの航空会社だった。あの時は、スエーデンのサーブ社制の小型機で、空港小姐は席上の棚蓋は開いたまま、シートベルトチェックも知らん顔、飛んだとたん自席で居眠り、JALスチュアーデス養成所関西支社四条畷分校の先生が見たら卒倒しそうな乗務ぶりを見せてくれたものであった。その、南西航空にのるのである。緊張するなー。

 例によって50元の建設協力金を払い、17時10分にテイクオフ。機体はどこのメーカーか解らないが、機内のそこかしこにある表示にフランス語が結構読み取れる。

 

恐らくヨーロッパから流れてきた中古品であろう。ま、どこの中古品でもええけど無事故で飛んでや。席は120席ぐらいだろうか、満席である。夕食の時間帯であったので機内食がテイクオフをしたとたんに配られ始めた。

 

コンビニなんかでサンドイッチが入っている透明のプラスチックケースに入った夕食だ。それが20個単位ぐらいで細引の紐で結んであり、航空小姐はそれを両手に持って現れ、客席の横でその紐を切り、通路側の客に3つづつ配っていく。後はあんたらが窓側へ手渡してや、ということらしい。         

  「試験用紙を配ってるんとちゃうんやから」                   

 機内では、一斉にペキペキといった、梱包を外す音が拡がる。さーものの10分ほどしてからだろうか、今度は手に毛染めの時に使う様な薄いビニールの手袋をした航空小姐がゴミ袋を拡げて歩き回り始めた。

 

 「今日は生ゴミの日とちゃうど」

 

 まだまだこれからやね。南西航空さん。

 

 1時間40分のフライトで深 机場にランディング。暖かい、ホットする。市内まではミニバスで約40分ほどだ。さすがにここまで来ると、中国というよりも香港の雰囲気が流れはじめ、H君も「ここほんまに中国ですか」と言葉を発するほどだ。そして、資本の投下も今もって凄まじいものがあり、丁度、1年前に同じバスで走った8車線全幅員60m位の道路添いのビルも半分位しか記憶を呼び起こせなかった。3千年の歴史を見るなら西安、1千年の歴史を見るなら北京、百年の歴史を見たければ上海を、と言われるほど、上海を含めた経済特別区での変化は目を見張るものがある。

 19時大西さんと1年ぶりの再会。変わりなく過ごしておられるようだ。

 

夕食をご馳走になりながらの、中国今事情はなかなか興味が尽きないものであった。特に興味があるのは「1997PROBLEM」と言われる香港の返還問題だ。

 

今のところは1997年には政権は確かに中国には戻るが、後50年間は経済的な政策は今のままの資本主義政策を続け、経済特区とその回りに隣接する地域との格差を無くす努力をする予定らしく、その後、徐々に特別区のエリアを拡げる政策を展開するのではないか言われている。

 

ちなみに香港の隣のここ深川特別区では香港との経済格差は1:1.2位にまで縮まっているとのことであるが、しかし、さらに特別区の外周や地方とでは驚くべき格差がまだ厳然とあり、いわゆる「盲流」現象という地方から都市部への違法移動が各所で繰り広げられているのが現状である。

 

 深川空港から市内に向かう時も、昨年には無かった大規模な検問所が設置され、公安が一人一人のチェック行なっていたのもその対策であろう。ますます目が離せない中国である。

 

 

12月30日

 久しぶりにバスタブに浸かり、充分な睡眠を取った朝は爽快である。一晩だけの訪問は名残惜しいものであったが、今日は14:50広州発のJASに乗らなければならない。広州までは深川から広九鉄道(香港〜広州)に乗るつもりであったが、親切にも会社の車を用意して下さり、好意に甘えることにする。距離は約150`、全線高速道路である。走る車はベンツSクラス、セルシオ、タンクローリーフルサイズ等など、「ほんまにここ中国ですか」と再度H君より言葉が発せられるにはさほどの時間はかからなかった。

 

 空港に入る前に運転手さんに連れられてレストランに向かう。

これも大西さんの手配である。恐縮の限りであるが、注文するわするわ、ビールを飲むわ飲むわの1時間で、兎の煮込み鍋、狗肉(犬)鍋を平らげる2人であった。

 

 昼食後、せわしいH君は、「僕、公安にフィルムを抜かれたので、広州駅の写真を撮りにいってきますわ」ということで別れる。航空券とパスポートを預かり、H君の分のチェックインも引受けるということで、彼には14時30分までに空港に来たらええわと、伝えた。しかし、これが後で二人にとって冷汗物になるとは知るよしもなかった。  

 

 さて空港内に入って、手続表示も出ていないので周辺をブラブラ。12時すぎにランプが点滅しはじめた。さ、チェックインだけでもしといたろ、と辺りを見回すが国内線の表示しかないのだ。おかしいな・・・・・

 

 そうこうするうちに、日本の団体客らしき一団が出国手続き窓口に並び始めた。

 「お宅ら、JASで関空へいきはるんやね」

 「そうです」

 「搭乗手続きは何処でしますの」

 「添乗員さんがここに並んでください、と言いはったから並んでるだけですねん」

 

 どう見渡してもないのだ、取り敢えずこの列に並ぶか。列は除々に進み始めた。前方に国外窓口の看板が見え始めた。しかし、チェックインカウンターは見えない。

 

 あ!       

 

 冷や汗が流れ始めた。この空港はなんと出国手続を先に済ませるシステムになっているのだ。今の時点では確かに俺は航空券とパスポートがあるから出国手続きをして、さらに奥のチェックインカウンターで搭乗手続きをすれば済むのだが、同僚のH君はどうなる。俺知らんもんね、というわけにはいかない。待つっきゃないのだ。

 

 12時30分。来ない。12時40分。来ない。12時50分。来ない。

 

 国際線の場合は通常、出発時間の2時間前にはチェックインを済ませるのが、大方のルールになっているのが、今は13時10分、出発予定は14時50分。     

 

 たのむから、はよ来てくれー!

 

 13時40分。来ない。13時50分。来ない。14時00分。来ない。      

 H君にすれば、こんなことは知るよしもないわな。いまごろ、広州駅前の広大な人の群れを見て、最後の中国に浸っているのだろう。それにしても、「14時30分頃空港へ来たらええわ」という打合は最悪の事態を考えなくてはならない時にきた。本日、もし満席でキャンセル待ちの客がいれば、たとえリコンファームをして座席権利があるとはいえ、30分前には、キャンセル席を売り出すだろう。汗が伝ってへその辺にまで流れてきた。

 「情報をお知らせします。日本エアーシステム10便の客は、聞こえたら搭乗手続きを至急して待合室に行ってください」とアナウンスが始まった。それにしても、誰がこんな日本語アナウウンスを教えたのだろうか。笑ってしまう。

 笑っている場合ではない。

 

 14時20分来ない。14時25分。来ない。14時30分。来た・・・・・!

 

 何故俺がここに突っ立てるかを話す暇はない。兎に角、出国手続きだ。わっせわっせと審査官の前に行くが、これがまた丁寧に見よる。胃がきりきりと痛む。       

 

 14時33分「早よ見てーな」                          

 今度はパスポートの出国押印場所に栞を挟んで、次の窓口に持っていけ、という。

 来た時と同じ手順だ。14時35分だ。「おっさん、いっぺんに仕事が出来んか!」

 

 出国スタンプを押して貰って、今度はチェックインカウンターに向かって突撃だ。

 14時37分。カウンターに到着。席はあるやろか。日本人スタッフが応対をしてくれる。恐る恐る、「まだいけますか?」と聞くと笑顔が戻ってきた。よかった。へなへな。

 「喫煙席がいいですか」「ええ、出来れば」        

   

 こんな遣り取りもそこそこに、わっせわっせと搭乗口へ。機内に入る。日本人スチュアデスだ。何時ものことだが、ほっとするのよね、日本の飛行機に乗ったら。日本に帰って来た感じになる。これは別に日本の飛行機が安全であるための、「ほっ」ではなくて、日本人が微笑みかけてくれる「ほっ」だと思う。インド人がエアーインディアに乗っても、エジプト人がエジプトエアーに乗っても同じではないだろうか。           

 しょうもないこと言うてんと、はよ乗れ!

 

 わっせ、わっせ、機内へ入ったとたんに、「ドアモードを変更してください」の業務放送があった。やれやれである。 

 

 あれ!

 ガラすきや!

 旅は終わった。                 

                            おしまい。

 

【あとがき】

 平成7年度版「環境白書」は異例ともいえる現代文明批判を行なった。

大量に物を作り、使い、捨てる生活が世界のすみずみまで拡がった現代は、「環境の面でもついに地球的規模での限界が見えつつあるところまでに至った」と警鐘を鳴らしている。環境問題はいまだれもが避けて通れない事態を迎えている。

                                        

 今回の旅で目にした景色は、ヒマラヤの南麓、華南、江南地方の山岳地方を経て西日本までを結ぶ「照葉樹林文化圏」の真っ只中を進んだのだが、バスからみる光景は赤茶けた大地と植林が施された緑であった。残念ながら近代文明は貴重な森を消し去ってしまったようだ。一方、深 から広州に伸びる高速道路から見えた光景は高層ビルの影に見え隠れす

 

 

 

 

 人類はどこまで欲望を満たせれば満足をするのだろうか。

 もうこれぐらいでええんとちゃうの。

 

                      1996・01・31

                           Y.ISHIDA

 

 

 

 

 

 

                    

 

  まじかる・みすてりー・つあー

 

      バスで40時間、おじさんは中緬国境に何を見た!

 

                  1995・12・21〜30

 

                   ・発行者        石田 義久

                   ・書取・編集   NEC文豪ミニ5ZV

                   ・印刷所     フジ・ゼロックス

 

 

 

答え:世界的ホテルチェーン店のホリデーインです。