ナンだったんだ、この三ヶ月
中咽頭癌+リンパ転移 大騒動顛末記
何が私の体と心の中に起こったのか・・・・
2003年の夏は妻との北海道バイクツーリングで始まった。しかし、気温は近年にない異常低温、知床の羅臼では日中気温が9度の中を走らされたが、久しぶりの充実した旅であった。
だが、今回の騒ぎの主人公はこのとき既に、右側扁桃腺から頚部リンパに転移しており、手で触っても分かるぐらい、うずら卵大の大きさになっていた。
流石にどんどん大きくなってきたので、「脂肪の塊やろ」では済まされず、近くの町医者で診察を受けたところ、「扁桃腺がえらいことになってる!これはおかしい・・・」ということで直に紹介状を書いてもらい、大きな病院で生体検査を受けるように、ということになった。
この時点でも食べ物飲み込み時の違和感はまったくなし。
7月31日 尼崎市のK病院 耳鼻科にて第1回目の診断を受ける。紹介状のあて先が部長先生であったのでI部長先生自らが診察。 スコープで見ると扁桃腺がイチゴと言うかザクロというか、とにかくエイリアン生息状態になっていた。
先生の顔はさえない表情であった。
2003年
8月 7日 扁桃腺生体検査のため肉片採取。 5ミリ四方ぐらいを採取。採取後、喉から結構な血が噴き出たが、痛みはスプレー麻酔が良く効いていて、何度も真っ赤な血を口から出すだけであった。
8月14日 検査結果を聞くために病院へ。
開口一番、「家族の方は?・・・・」
直感的にやばいと感じる。
「来ておりませんが、癌なら癌とおっしゃってください。」
「はい、残念ながら悪性腫瘍です。・・・・」
極めて事務的な感じで幕は切って落とされた。
中咽頭癌(原発)+リンパへの転移の宣告を受ける。
癌の進行度合いを表すのにステージという表現が使われるが、リンパへの転移が認められたので、4段階のうちで既にステージは4であった。
しかし、この時点でもなんら痛みが無いこともあって、事の重大さを感じるには至らなかった。 ざっとした、治療方針のレクチャーを受ける。すなわち、手術、放射線、抗がん剤のトリオ座パンチ、肉体攻撃である。
8月19日 K病院ロビーで担当の看護士・Oさんに迎えられて入院。 一人部屋はかえって精神衛生上まずいと考え、大部屋(普通部屋)を希望、713号室・ 5人部屋の住人となる。
ここは泌尿器科と合同のフロア―であったので、尿袋をぶらぶらと下げた前立腺癌の患者が目に付く。 パジャマに着替えてベッドに横たわれば心身ともに重病患者になってしまう自分を感じる。
再度、治療方針の説明がなされる。
コースは松竹梅とあった。
松は、手術をしてその後様子を見ながら放射線を当てる。
竹は放射線治療を一定まで行い、経過を見て手術もしくは限界まで放射線を。
梅は、抗癌剤の投与であるが、咽頭癌には利きが悪いので、ロジスティック的なものでしかないらしい。
手術は、12時間ぐらいかかる大掛かりなものとなり、後遺症として喉チンコを取ることによる言語障害、顔を割って施術することによる顔面麻痺、口腔と鼻腔が繋がるための咀嚼障害、等が残るとの説明を受ける。
説明を受けている最中にえずきそうになる。
一方、放射線は、まず25回の放射線を首の周りのリンパ節と左右の扁桃腺に向かって放射するが、放射中はまったく痛みは無いし、扁桃腺等の上皮癌には放射線治療が比較的効果を上げているとのことであった。
後遺症として、序々に内部の皮膚が焼かれるので、口内炎、味覚障害、唾液障害が出てくる。外側では皮膚が黒ずんだり、肩こり等が出てくる。これらの症状には個人差がある。
以上の説明を受けた。いわゆるイフォームドコンセントというやつであり、患者側に治療の選択をさせるのである。初めて聴くような単語と恐怖の世界の中でで判断しろとは無茶な話しである。
結局、生身の体としては痛みの少ない方を選ぶこととなる。
また、この時点で他の病院を当たって意見なり治療方針を聞いて頂いても結構です、というサジェスチョンもあった。いわゆるセカンド・オピニオンていうやつである。
ということで、当世はやりの2つの治療前説明は受けたが、精神的なケアーやなぜ癌になったかなど、タバコと酒が大きく起因してますねー、の原因説は当然にあった8月20日
ものの、その他の納得のいく説明はなかった。(無理な要求とはおもいますが・・・)
リニアック(放射線)治療 第1回開始
デスマスクを作る要領で熱々のプラスチックネットを顔に被せ、技師さんが、ちょっと熱いけど辛抱しとってねー、とうちわで私の顔を煽ぐ。
頭部固定マスク(器具)を作成。照射する範囲をマジックで、体に直接線引きをする。
以上の作業があった後、照射をしたが、痛くも痒くもなく、2分ほどで終わる。雰囲気は、冷凍睡眠をかけられて、スタートレック・宇宙への旅立ち状態みたいであった。
最新鋭の機器とうちわパタパタの光景が妙にミスマッチな世界でもあった。
8月22日
リニアック第3回目を終えて帰宅。照射時刻は朝一番なので金曜日の照射が終わればルンルンである。さー帰ってビールを飲もう!
この時点ではまだ癌は医者に治してもらうものである、という認識をもっていた。。
8月25日
月曜日の朝病院へ。中咽頭癌で喫煙、飲酒習慣のあった人は食道、肺、胃にも癌の疑いがある場合が多い(ドキッ)ので、胃、食道カメラ及び肺CT検査の実施。
リニアックは第4回目
8月26日
補助的な意味合いで抗癌剤点滴1−1がスタート。
一日に4リットルぐらいの抗がん剤をを体内へ。7時間かかる。化学物質をこんなに体に注入するのは恐怖である。点滴をしたまま放射線室へ。リニアック第5回目
8月28日
抗癌剤点滴1−3終了 リニアック第7回目
8月29日 リニアック第8回目終了後即帰宅
9月 1日 月曜の朝は病院へ。なんか勤め人みたい。 リニアック第9回目 リニアックの影響で喉の痛みが激化してくる。癌の治療をしていることを実感し始める。
9月 2日 抗癌剤2−1の点滴開始。 また一日7時間の始まり。
リニアック第10回 リニアック担当のOドクターの検診。 腫瘍が小さくなっていることが確認され、感激で胸に迫り来るものを感じる。
9月 4日 抗癌剤2−3の点滴終了。 リニアック第12回 喉が痛く食物は通過せず。看護士には体調は特段に問題ない素振を続ける(週末帰宅の許可を得るため)
9月 5日 リニアック第13回終了。即帰宅。自宅での食物は卵かけご飯とビール。
9月 8日 月曜の朝は病院へ。 リニアック第14回 この頃より口内炎が益々激しくなる。
9月 9日 リニアック第15回。リニアックのOドクター検診。腫瘍が依然小さくなっていっていることを確認。目頭が潤む。体が痛めつけられていることの裏返しであろう。抗がん剤の第3週目は喉の痛みが激しく中止とする。
9月10日 採血。 リニアック第16回 喉の痛み止め点滴2本。夕刻、部長回診。
9月11日 リニアック第17回 口内炎の痛み止め点滴2本
9月12日 リニアック第18回終了後 帰宅 カップ麺を冷まして何とか食べられる程度。
ビールもなんとか飲み続けられる根性は残っている。
でも1缶飲むのに約1時間はかかってしまう。
9月16日 敬老の日のお陰で一日長く家に。火曜日の朝病院へ。 リニアック第19回 リニアック担当Oドクター回診 痛みドメ錠剤スタート
9月17日 部長回診
9月19日 リニアック第22回 終了後 即帰宅。 今回は飛び石連休なので実質五日間の休暇。
9月24日 水曜日の朝、病院へ。 リニアック第23回
9月25日 リニアック第24回 最終回を前にCT撮影
9月26日 リニアック第25回 MRI撮影が午前中で終了 もう治療もないのでそそくさと帰宅。依然、小さな腫瘍はリンパに残ったままなので中途半端な気分の週末
9月29日 月曜の朝、病院へ。 リニアックOドクター回診。 主治医Iドクター回診。 気持ちが不安定なまま帰宅する。とにかく病院に泊まるのは嫌。
9月30日 朝、病院へ行くも特段予定なし。ふたたび帰宅する。
癌関係の書物をむさぼり読み、この頃より食生活による血行改善と癌は自分で治すという意識付けを始める。
10月 1日 朝、病院へ。リニアックOドクター回診。 残った腫瘍は大きく、残り許容量 10回の放射線では消滅が困難である。豊中市民病院に同じ阪大グループのNドクターがより高度な放射線医療をしているので、一度相談をしてみては、との提案あり。
豊中市民病院へ行って相談する旨を主治医Iドクターも確認。 帰宅。
10月3日 豊中市民病院へ。 Nドクター診察。 結局、同意見で、残りの腫瘍が大きすぎて残放射量では困難であるとの見解を得る。
10月8日 水曜日夕刻、病院へ。 主治医Iドクターより手術しか方法が残されていない旨の通告あり。
・手術は約12時間。顎をはずしての大掛かりなものとなる。
・口腔と鼻腔がつながるので、修復は腹の皮膚を移植して補修する
・術後1ヶ月間は頸部動脈をバイパスしている関係で微動だにできない
・術後の後遺症の説明あり(構音障害、咀嚼障害、顔面麻痺)
・術後5年以内の再発率50% 同じ場所で再発した場合は再手術不可
・手術をするなら今月24日。
・このまま放置すれば余命6ヶ月。
以上の条件で決断を迫られる。
何を基準に物事を判断していいのか分からない。
呆然としたままであった。
10月9日 早朝、採血の後帰宅。
この間妻と何度もディスカッション。
積んでは崩し、積んでは崩しの思案の繰り返し。
手術の実施の歩留まり余りにも悪い。
妻が、「おとうさん、二人で治そ!」と叫ぶ。
代替医療(手術、放射線、抗がん剤以外の治療)の道を探すことにする。
10月14日 夕刻 Iドクターと面談。
この頃より早朝の軽い歩き(1時間程度)と腹式呼吸による気孔もどきを始めるとにかく血の流れを良くすることに専念する。
10月15日 午前 主治医Iドクターと面談。 手術は受けない旨を伝える。最後にもう一度CTとMRIの撮影を要請する。
午後 リニアックOドクターと面談。
「放射線では無理、なぜ手術をしないのだ。顔の傷は大きくは残らないのに・・」といった的外れな迫られかたをする。
私の主治医は耳鼻咽喉科の医者なのだが、実際の放射線の施術は放射線科である。連絡が悪いのか、テリトリー意識が強いのか、その間で振り回される場面が多々あった。
10月16日
信州・長野で友人が経営する自然食を用いたペンションへ、食の勉強と精神的な面の強化をしに行く。行きの高速道路ではむしょうに涙が出始め、運転できなくなる場面も。精神的にぎりぎりに来ている自分が分かる。
10月19日 長野より帰る。
長野の友人曰くく、「 肉体は仮の入れ物、人の死は無い。魂は永遠なり」の言葉が印象に残る。
妻は健康を考える会の講座出席のため京都へ。
10月20日 明日の朝に採血があるため、夕刻、 病院へ。
10月21日 早朝、採血 午後 CT・MRI 撮影 Iドクター面談
10月22日 午前、 昨日の撮影データ―をもとに主治医Iドクターと面談
腫瘍が予想以上に小さくなっており、MRIでは確認できず、CTでは小さく写っているものの、影は薄くなっているのを確認。リニアック続行の可能性が出てきたことを示唆される。
自分自身ではなんとなく小さくなってるなー、と感じていたが、医者の口から、データーをもとに、小さくなっているといわれると、矢張り喜びは大きい。
後、帰宅して別荘ログ・ピタゴラスへ精神休養。
10月23日 午前 リニアックOドクターと面談。
しぶしぶリニアック計画を再検討することになったが、なんともぎくしゃくした雰囲気であった。
ただこの時点では、自分としてはもう少し様子を診て、ぎりぎりの時期まで引き延ばしてから残りの放射線照射、と決めていた。
10月26日 マクロビオティック(玄米菜食)の勉強であやめ池・深川宅へ
10月27日 朝の人参ジュース用にジュサー、玄米食用に精米機を購入
10月28日 大阪・梅田のウェスティンホテルにてマクロビオティック・ランチを食す
ランチバイキングで飽食に明け暮れる人々の中で玄米と根菜の煮付けを食す二人は知的ですらあった。
10月29日 京都・伏見へ 健康を考える会の講座に参加。玄米菜食と精神的な強化を図る。
10月30日 病院へ 主治医Iドクターと面談の予定であったが休みで、Iドクターと面談
放射線治療の続行を受けない旨伝える。
10月31日 西洋医療と離れるということで精神的に不安定になる。ひとりでログへ精神的休暇。
11月4日 帰宅の後、病院へ。 主治医・Iドクターに面談。最終撮影時よりも更に腫瘍が小さくなっている旨を伝える。
(主張しないと医者は写真やデーターだけで判断しようとする)
触診の結果、腫瘍が無いとの診察結果が出る。
主治医は、「コンプリート レスポンス!」とつぶやき、矢張り放射線の効果が続いていたんだね、との雰囲気であった。
私としてはかなり白ける。
続いて、主治医は駄目押しの放射線治療続行を勧めたが、現時点での自己治癒力を落としたくないので、さらなる放射線治療は受けない旨を再度伝え、主治医も了解した。
経過観察で合意。帰り際に、現在している代替療法を頑張るように、との発言があり、やっと人間的なものを感じる。
11月5日 T鍼灸庵にて治療を受ける。方針としては、ここでは自律神経系の治療をしてもらうことにする。
11月6日 福井県 曹洞宗本山・永平寺へ参拝。気持ちが洗われる。 マクロビオティック食堂でランチ。こんな片田舎にもあるんだ! ここで、9年前に中国旅行で知り合った深草さんと待ち合わせし、再開する。
現在、カナダより一時帰国し、胃がんのお母さんを看病中。
11月8日 ログ・ピタゴラスへ。気持ちの洗濯。
11月9日 島根、鳥取の県境の田舎にあるマクロビオティック食堂を訪問。
レシピ等を頂く。どこにでも玄米菜食愛好者はいるものだ、と心強く思うとともに、病める現在の世相を垣間見る。帰路は鳥取・吉岡温泉へ。
11月11日 ログより帰宅 この頃より過食症に悩む。
多分、動物性の食物が口にできないリバウンドか。
11月14日 T鍼灸庵にて治療
11月15日 京都・御池の「おばんざい」にてマクロビオティック・バイキングランチを食す。
マクロビオティックグルメになってしまったのかな。本来は食の煩悩から解脱しなければいけないのに・・・・
11月16日 京都・伏見にて健康を考える会に出席
11月17日 3ヶ月振りに出勤。人の波動に疲れ、二日目の夕刻にはダウン
三日目は休む。
11月20日 神戸・有野台のアドベンチスト病院の食堂「シャローム」にて。
マクロビオティック・バイキングランチを食す。
11月21日 T鍼灸飲にて治療
11月23日 千里中央・セルシー内の中華街、健福にてマクロビオティック中華ランチを食す。ベジタリアンの人口は世界的にみても多いことを実感させられる。中華素菜(ベジタリアン)は素材の選択枝がさらに厳しく、にら、たまねぎ、ニンニク系が5行の教えにより摂取できないとのこと。
12月9日 定期検診 主治医との面談。丁寧な触診をしてもらう。
5ミリぐらいの腫瘍はまだ存在するねー、と彼はつぶやく。
・・・・・・なんと反応していいのやら。
自分では腫瘍は消滅しているとは思っていないので、特段にびっくりはしない。
生きていていま思うこと。
突然の癌宣告。
別に身体が痛くて転げまわっていた訳ではない。
休養ぐらいのつもりで入院した私。
癌に対する知識もないままに・・・
西洋医学が抱える癌に対する医術の閉塞的な状況も知らないままに
放射線台に身体を横たえる自分があった。
西洋医学は容赦なく身体を切り刻もうとする。
治療放棄すれば余命6ヶ月であると宣告をする。
余命という言葉を聞けば誰しも恐れ慄くものだ。
腕に張られたバーコードと点滴ボトルのバーコードを照合して、身体に針を入れるだけだ。
一日に何リットルこの化学薬品が身体に注入され、放射線が浴びせられる。
食事は食べたか?便は出たか?小便は何回したか?血圧は、体温は?
マニュアルに載った医療は忠実に守られている。
でも、涙した回数と量は聞いてはくれない。
西洋医療に心のケアーのマニュアルはないのだ。
25回の放射線治療は終わった。
扁桃腺の腫瘍は縮小したが、リンパ節の腫瘍は消えなかった。
医者は残りの10回の放射線では無理、手術しか選択肢は無いと言った。
手術の日も決められた。
手術は12時間、後遺症、再発率50%。躊躇するには十分の材料が揃っていた。
私は手術を断った。
癌宣告を受けた時に私の人生は一度終わっている。
二度目の人生を何日生きられるかは分からないが、悔いの無いように生きよう。
こう心の整理をつけるにはさほどの時間は要しなかった。
西洋医学は自分で生きて行こうとする気持ちを斟酌はしてくれない。
心は揺れ動いた。
そんな頃、職場の同僚を通じて何冊かの本に巡り合った。
どの本も底流に流れる考えは同じだった。
癌は血液の病気だ!
他所からばい菌が入ってきてなった病気ではない。
自分の生活習慣の中で作り出したものだ。
スイッチを入れたのは自分自身だ。
いま、生活習慣病といわれている、高血圧、糖尿病も同じ。
そして、大きな要因として存在するのが「血液」そしてストレスなのだ。
血液を健康にしてやればこれらの病気は治る。
血液をさらさらにしてやればこれらの病気は治る。
心の環境を変えてやれば治る。
人間の細胞は3ヶ月で入れ替わる。
そう信じて生活を始めた。
最初に共鳴をしたのは妻であった。
おとーさん、自分達で治そう!
医者が6ヶ月やと言うんなら、2回細胞は入れ替われるよ!と
時を同じくして、6月に車のドアで挟んだ左手人差し指の爪が再生していた。
僕達へのラッキーな暗示であったかもしれない。
我々は手術を断り病院を後にした。
玄米菜食の生活が始まった。
我々が今持っている癌への武器はこれしかない。
食療法で癌を克服したレポートはあまたあった。
玄米食についても以前より食していたりしたので違和感は無かった。
ただ、菜食については門外漢であった。
東洋的発想に基づく「身土不二」と「一物全体」
自分が生活している地域の作物を旬の時に頂くのが一番あなたの身体のバランスを整えるのですよ、という考え方である。
「一物全体」は、おいしいところだけを食べたら駄目ですよ。有難く全てを食べなさい。
これらの考えを基本として動物性蛋白を摂取しない食生活である。
玄米菜食がすぐに癌に利くとは思っていない。
しかし、何かを信じて実践していくことは精神的に強くなれる。
11月3日、主治医の触診によりリンパ節の腫瘍は無くなっていた。
医者は放射線の効果を強調した。
否定をするつもりは無いが、なにかすっきりしない。。
スケジュールに乗ったまま手術に向かう自分を想像すれば身震いをした。
いまここで主治医を批判するつもりはない。
問題は西洋医療=対処療法の閉塞感を感じるのみだ。
完治したとは思っていない。
いつ再発するかもしれない恐怖心はある。
でも、今度は自分で考えよう。
医者に治してもらうのではなく、医者に治すのを手伝ってもらうのだと。
最後に、今回の癌宣告で感じたことは西洋医療のなんともはや合理的な処理方法と東洋医学を始めととする民間医療の多様性と、精神世界をも巻き込んだ治療に感心もしたし、納得もした。矢張り、命云々になってくると精神的にフォローをしてくれるものが絶対に必要となる。
そして、そのフォローをしてくれる大切なものは家族であり、友人であった。
一人で生きているのではなく、生かされている自分を見ました。
次回の更新時にも変わりないことを祈りつつ・・・・つづく。
完治したとは思っていない。
でも会う人がみんな、「治ったんやんてね」と言ってくれる。
ちょっとつらい。
西洋医学の世界からとりあえず離れて、妻と二人で歩き始めただけです。
12月16日 定期健診。
主治医は私の首周りを丹念に触診。
うー、まだ5ミリぐらいの腫瘍が残ってるね、て言う。
特段それに対して私は反応しなくなっていた。
5ミリの世界がどうして触診で分かるの?
こんなカッコいいこといってますが、本当はすごい恐怖心なんです。
朝起きたら、また首の横が膨らんで来てないかと、思うと眠れなくなります。
精神的にもすごくゆらゆらします。
11月中旬より職場復帰をする。
流石に最初の2週間ほどはフルタイムで張り付く気力、体力はなく、若干あせりました。
気持ちを落ち着けるために12月17日より4日間、ふらーとタイの南部、いつものホアヒンへ行きました。
一人で日永海を眺めていると・・・・・半年間のことが走馬灯にように駆け巡る。
とにかくリラックスしなくっちゃ。。
12月28日 御用納め
職場のみなさん、仕事のパートナーの暖かい心遣いで年末を迎えることができました。
食事療法の方は除々に完全菜食を緩めて、魚、鳥肉も週に一度ぐらいは食するようにする。
異常だった食欲は段々と落ち着いてくる。それと平行して顔がえらい丸くなってきた。
体重は2キロぐらいしか増えていないが、顔と首周りがぽんぽんになってくる。
なんでだろー?
朝の散歩は流石に寒さで、週3回ぐらいになるが、週末の3時間ハイクは結構続いている。
味覚はかなり戻ってるいるようだが、唾液の出は悪く、便の出も二日に一度、それも下剤の助けを借りてい る。これは早く解決をしたい。
1月14日より17日まで格安パックツアーで北京へ。(この旅行記は当ホームページの海外旅行ペー ジで2月中旬ごろリリースの予定)目的は漢方薬の買出しです。やっぱり本場だけあって日本市価の 1/10ぐらいで買えました。今飲んでいるのは、白人参と田七人参、ローヤルゼリーです。
年末より友人より頂いたびわの葉をカイロにセットして首にペタン。はずす朝方ごろには首の腫瘍?の しこりは柔らかくなっている。腫瘍か殻か放射線しこりか?なやましいところです。
2004年
1月22日
病院にて定期健診。 若い方の先生の触診。
体、調子どう?(触診と喉の中のぞき)
ぼちぼちです。先生まだしこりがちょっとありますやろ。
ほんまやなー。CT撮るか?
いやー、まだよろしいわ。
ほな、採血だけしとこか。また来月な。
こんな会話が交わされただけであった。
1月末。
まだまだ顔と首周りは肥えてきている?腫れてきたんやろか?分からない・・・・
リンパから転移して顔癌(がんがん)になったんやろか?
次回の更新時もどうか平和でありますように
2月7日 大学卒業後に入っていた社会人山岳会の同窓会を25年ぶりに開いてくれた。
当時のメンバーの一人が企画してくれたのだ。嬉しかった。涙が出た。流石に皆50歳前後、現役とはいえ感無量。無言で酒を酌み交わす。
食欲は平常量に落ち着いてくる。
首の周りの腫れ?は相変わらずなので、就寝時のびわの葉・ぺたんほかろんコンビ治療は中止する。
心なしか腫れは引く。
お風呂に入って(半身浴)温めればしこり部分がやわらかくなる。
おそらく放射線治療による筋肉の凝りであろう(そう、言い聞かせる)
「医者が末期がん患者になってわかったこと」を読む。
鮮烈である。壮絶である。涙が出る。
最後まで医療業務に携わっていた姿に敬意を表したい。(癌関係読んだ本リンク)![]()
癌患者が精神的に追い詰められているのがよく分かった。
精神的なフォローも大切であると語っている場面は、まさに現在の医療の問題点を語っている。
このことは、おそらく個々の医者も分かっていると思う。
でも、今の医療システムの中では満足にそれが出来ない。
私の主治医、助手の先生も本当に朝から晩まで激務をこなしていた。
いまでも、気持ちのしこりはあるものの頭が下がる思いである。
でも、今の大量合理的医療処理は精神世界にまで踏み込むことは許しはしない。
2月26日 定期健診。矢張り最近の首周りの腫れ?が気になっていたのでドキドキ
若い方のI先生に見ていただく。
丁寧な触診、喉の観察と先月に採血した血液検査結果。
触診→ 変わりはないですかー?わー、首がぽんぽんやな。しっぷ薬を出しとこか。
観察→ うーん、異常ないね。唾液がちょっと出てきてるみたいやね。
血液→ 異常値は無し。癌腫瘍マーカーについても、入院前値は1 .8、今回は0
.8、陰陽分岐点は1 .5 やから心配ないよ。白血球も戻ってきてるよ。

この言葉はどんな薬よりも身体に喜びと充実感を満ち溢れさせてくれることか。
診察室を出たときにおもわず、握りこぶしで、よーし、のポーズ。
廊下でO看護士さんと会う。感激。
2月下旬時点で味覚30%、唾液20%、ぐらいまでもどったようだ。
ただし、味覚は物によっては、何でだしをとってとっているかまで分かる敏感な場合もある。
耳垢は依然無し。
鼻粘膜も正常ではないようだ、よって鼻の穴をテイッシュで拭いても汚れないし、鼻くそも出ない。
時折、耳核がキーんキーんとなる。
声は自分ではかすれ声に聞こえる。
水虫が治った。
以上が放射線による後遺症のようだ。
放射線で破壊された組織が復元しようとして軋み音を上げている諸症状だと思う。
さらに自己免疫力を上げなくっちゃ
それにしても、「医者が末期・・・・」、の著者も書いていたが、医者にも分からない放射線治療の後遺症がいろんな形で出てくるみたいだ。

3月1日 通販で頼んでいたアガリスク水溶液が届く。巷にはこの手の栄養補助剤といわ れるものが星の数ほどあり、正直、胡散臭さが付きまとうものばかりである。おまけに高 価。
そんな訳でなかなか手がでなかったのだが、これは大手製薬会社が出しているものな ので、試してみよかなと思って注文した。でも、30パックで18000円、一日600円なん ですよね。ま、生ビールを飲んでいると思えばいいか。
先週より鳥インフルエンザ騒ぎ。
食の世紀末が近づいているような気がする。
アメリカ人が今のような肉中心の豊かな?生活になったのはここ50年位らしい。
これは、驚き!
そして、今アメリカ厚生省は増大する医療費に根を上げ、国民に食生活見直しキャンペーンを行っている。
50年の間に蓄積された食の歪が一気に噴出して来ているのだろう。
肥満、癌、高血圧、糖尿等々、なぜか寒い感じがするばかりだ。
あと5日で55歳の誕生日を迎える。
でも、昨年入院時に私は一度命を終えていることにしています。
昨年の9月25日の放射線治療が終わった時点での医者の見立ては、治療せずに放置すればあと6ヶ月とのことだった。
その6ヶ月目は3月25日である。
3月25日を誕生日にしようと思ったのはその宣告を受けた時だ。
さーもう少し、がんばるぞー!
3月11日
誕生日の朝、妻は「おとうさん生きてる?」と聞く。
55歳・戸籍上の誕生日を迎えた。
いつもは、あー又々歳をとってしもたがな、とむしろ誕生日を気分の中では遠ざけようとしていたが、流石に今年の誕生日は待ちどおしかった。
感無量の朝を迎えました。
3月13日より20日まで闘病のご褒美ということでスリランカへザックを担いで旅行にでる。
無理はできぬが体力、気力に対する自信感みたいなものを付けたかったからである。
(旅行記は4月末ごろには当ホームページで公開)
味覚の方も徐々にではあるが戻ってきている。
辛いも、甘いもを口に入れると飛び上がっていたのが嘘のようである。
でもスリランカのカレーは辛かった。
しかし、彼らの食生活は昔の我々の食事同様に質素であり、地元で採れる物を知恵を使って調理しているだけである。いわゆる地産地消であり身土不二の世界であった。翻って日本では鳥インフルエンザで大騒ぎ、いやはや滑稽なことである。
3月20日
いかりや長介が死亡した。(合掌)
原発不明頸部リンパ節がんとのこと。
入院時期もほぼ同じ。
治療方法も同じ。
すごいプレッシャーである。
3月25日
放射線治療終了時より6ヶ月目の日を迎えた。
昨年の9月25日、治療が終わって医者より、更なる放射線治療をしなければ余命6ヶ月だよ、と宣言を受けていた。
今日がその日である。
なんと表現してよいのやら。
体調は良好とは言わないが変化無しである。
K病院にて定期診察。
主治医のI先生に3ヶ月振りぐらいで会う。
扁桃腺周辺にカメラスコープを入れてモニターに写してもらう。
石榴状になっていた扁桃腺は跡形もなく綺麗に直っている。
触診では頸部リンパ節に依然硬い物体がある。
ただ、以前にガン腫瘍であると指摘されたものとは明らかに異なる形の物体だ。
恐らく放射線で焼かれた跡だろうと推察される。(医者もそう推察した。)
I先生はMRIとCT撮影を勧めた。
結局、触診では判断できないのだろう。
自分なりに少しずつではあるが頸部のしこりは小さくなっていっていると分かるので、撮影は少し先に延ばしてもらう。(これ以上ややこしい医療光線を浴びたくない。これも気持ちの中にあった。)
4月1日
人事異動があった。
農政課から資産税課への異動である。
組織とは冷たいものである。やっと慣れてきて昨年の迷惑をかけた分を少しでもお返ししよう と、春の空気の中でえい!っと背伸びをしたとこなのに。
今年も桜の花を見ることが出来た。
心底嬉しい。
便通がことのほか調子よくなってきた。
京都での健康勉強会でも先生がおっしゃておられたが、おならに感謝、うんこに感謝の世界である。
体のメカが正常に動いているな、と感じることは本当に幸せである。
4月10日
唾液60%ぐらい、味覚50%ぐらい、首周りの腫れは依然あり、耳垢依然なし、鼻くそは正 常になって来た。
ややこしい話ばかりですいません。
でも、私にとっては回復へのバロメーターですので。
次回はもっと味覚が戻っていることを祈って、・・・
4月22日
K病院の定期健診。そろそろ一回CTかMRIを撮っておきましょうか・・・ということで5月20日に撮影 予約をする
5月20日
CTの撮影完了。 4月の異動以来、運動不足と酒の席が多くなりちょっと生活が前の状態になって きている認識あり。ここ2週間ほどの首の腫れが気になる。
5月27日
CT撮影の結果を聞く。扁桃腺の腫瘍は消えているが、頸部リンパ節部分に大きな腫れが映ってい る。若い方のI先生は、再度手術の検討が必要であると判断を示した。次回6月15日に再度部長先 生と相談することとする。
仕事に出ても気分的にほとんど座れなくなっている自分が見える。
仕事も休みがちになってしまう。風呂上り、頸部腫れ部分への生姜湿布が日課になってる。
6月初旬ごろには腫れは一応引いた感じになるが、耳下に硬い部分の腫瘍あり、直径4センチぐらい。
ネットで調た限りでは耳下リンパへの転移は多いみたいだ。
6月15日
耳鼻科部長I先生の診察あり。
5月20日撮影のCT写真判断で非常に困難な状況になっている旨を伝えられる。
困難とは手術が困難なのか、状況そのものが危険なのか具体に読み取れない。
このまま進行すると腫瘍部分が頸部を突き破って外に出てくるとのこと。触診は形だけ。
手術について尋ねるも、本日は外来が多いので説明する時間がない、後日時間を取るのでその時に説明すると いうこととなった。
当面の療養ということで自宅静養要2ヶ月の診断書を書いてもらう
6月17日
妻が第4の癌治療として注目されている免疫化学療法を取り入れている東淀川のE病院に電話相談。
腫瘍が見える部分にあるのは期待できるケースなので週明けに来るようにとの指示アリ。
K病院へ部長アポを電話連絡するも週内は無理との返事。寒いものが心を走る。
6月21日
東淀川区のE病院に行く。
院内に免疫化学療法センターというのがある。
要は私の体から血液を採取、その中からリンパ球を選別し、選別したリンパ球をより多く、より強く培養して再び 体内に戻し、癌細胞と戦わせるというストーリの治療方法である。
担当のT医師の見立てでは、腫瘍が非常にいい場所にある。リンパ球を直接ぶち込んで効果が期待できるとい うコメントであった。絶望的な状況でこの言葉は目頭がうるむ・・・
K病院からのフィルム貸し出しが間にあわなった旨を伝えると、事態は刻々と変わっている、先月のCTなんて 見ても駄目。今からすぐに手配します、とのことだった。
その他、頸部腫瘍から注射での細胞採取、血液検査、心電図、胸部レントゲン撮影などがほとんどマンツーマンで実施された。
25日に院内打ち合わせをする。
28日月曜日には治療方針を伝えられる、ということになった。
同日夕刻、K病院より24日夕刻I部長の時間が取れた旨の電話あり。
6月24日
K病院耳鼻科部長、妻とともに面談。
触診無し。昨年からの4回のCT写真が並べられただけ。
放射線治療で一定の成果はあったもののリンパ節に転移しており、今の段階では手術をしても退院出来ない可能性もあるとのことであった。
今、先生にお願いすれば手術はしてもらえるのか?の問いには言葉を濁すだけであった。
結局、医者から具体的な提案は無く、状況説明ばかりである。妻が免疫療法の可能性を問うと、宝くじに当たるようなものだとの発言あり。気分的にうちのめされてしまう。
今の世相がそうさせているのか、医者が発言、行動したことに対してすぐに損害賠償を要求する状況が、「俺に任せなさい、私と一緒に頑張ろう!」というタイプの医者を無くしてしまったんだろうね。
堂々巡りの話をしていても埒が開かないので経過報告書とフィルム貸し出しだけの依頼。
了承されたので辞する。
(この時点でE病院からK病院の放射線課に昨年の私の頸部への照射量の問い合わせを入れていたようで、前回にもましてのギクシャクとした主治医との会話が後で理解できた。このことについて私はあえてコメントは控えます)
6月25日
吹田に財団法人・健康の森という、運動施設、診療所、研修所・食堂、自然食料品店などがある複合施設ある。昨年からちょこちょこ食事がおいしいので来ていた。5月に入り、鍼灸治療もやっていることがわかり、本日もリラックスコースに参加した。低温サウナに始まって、ストレッチによる血流を改善、全身針灸をしてもらう。
朝夕の散歩と生姜の温湿布。食事療法。ゆったりと時間を過ごす。
これだけが今自分に与えられている戦う武器で、一日が一生みたな毎日である。
だが、 E病院へ行って少し見方が変わった。
「なんにも腫瘍が完全に無くならんでもいいんでしょ。うまく付き合って、寿命が延ばせたらそれでええやん!」 ていうのがT医者のスタンスみたいである。
気持ちが随分と楽になって来た、言葉の力ってすごいな、と感じる。
6月28日
東淀川・E病院2回目。
先週の検査結果を基に以下の治療方針が示された。

・免疫力を落とさない程度に補助的に抗がん剤を使用し、腫瘍が大きくならないようにする
・免疫化学療法。体内より血液を取り出し、私が今もっている腫瘍細胞のみを攻撃する樹状細胞を培養 して再度、頸部腫瘍へ直接に注射投与する。
・並行して、採取した血液からリンパ球を取り出し、もとの数百倍〜数千倍に増殖させて再び点滴で血液に戻し てやり、がん細胞に対する免疫力を高る。
・腫瘍が小さくなった時点で手術を外側(口腔内はしない)から行って腫瘍を除去する
・術後様子を見て、放射線の許容量が残っているので照射を検討する
以上が示された方針であり、腫瘍が見えるところにあるので効果が期待が出来るとのことであった。
この治療に関してはまだ保険治療の対象とはなっていないので、採取、培養、注入の1クールあたり80万円ぐら いの費用がかかるが命には代えられない、というのが今の気持ち。
全国の地方大学(地方というのがみそ。白い巨塔グループではいまだ、抗がん剤、放射線、手術の3セットがお決まりのコースのようだ。)で免疫化学療法の研究が始まっており、ほとんんどの大学が研究という名目で無料診療をしてくれているが、なんせ培養の設備に限りがあるようで、1学校5人がキャパのようだし、通院が原則なのでちと大変。
ここ一番浮気はやめて、E病院の先生に賭けてみることにする
何よりもT医師の力強い言葉が気持ちの励みになりそうだ

さっそく治療をお願いする。
当日は軽い抗がん剤の投与を1時間ほど受ける。
点滴針が半年ぶりに左腕にささったが、なぜか安堵した気持ちが体中を走る。
さー、いまからまた治療が始まるぞー!
家族のためにも頑張ろう、という気持ちが湧いてきた。
6月30日
先日もらった血液検査数値をみていると、ここ一ヶ月の禁酒で肝機能が著しく正常値になったのと、菜食のためかコレステロール値などは極めて良好である。腫瘍マーカーも特段に変化は無し。
朝起きるのが楽しみになってきた。
あしたもいいことがありますように。
7月1日から4日まで、当HP上に紹介しているログで避暑をかねて一人で静養。
読書三昧でゆったりした気持ちになれる。
夜毎の蛍が幻想的だ。
7月5日 第一回目のアフェレーシスなるものを受ける。
人工透析の機械で左手から血液を抜き、血液成分分離機装置を用いて腫瘍を攻 撃してくれる白血球を採取し、残りを右手から帰してくれるというもので、約3時間ほどかかった。
体内にある約6リットルの内、4リットルも濾過するんやから気分的にもしんどくなるわな。
今日採取した攻撃的白血球は1週間かけて無菌室で培養される
7月6日 尼崎のK病院へ借りていたCT,MRIのフィルムを返しにいく。
これでここの病院とも実質お別れあるが、なんとも複雑な気分であった。
7月7日 体調も思ったほど落ち込まなかったので一安心。
それにしても暑い日が続く。再びログで避暑静養。
7月12日 第1回目の樹状細胞(7/5採取分)の投与である。
利いてくれよ!
私の場合は頸部に腫瘍が腫れ出ているので、そこに直接注射で注入である。
さぞかし痛いであろうと予想してい たが、量が少しなのであっという間のことであった。
むしろ二本目の補助剤の注射の方が痛とうございました。
事前説明のあったとおり、当日から翌々日までは発熱と倦怠感で家でダウン。
時折、きりきりとした痛みが腫瘍部分に走る。
攻撃細胞が戦ってくれてんやろうか?
7月16日 念のためということで胸のCT撮影を受ける→異常無し。ほ!
抗がん剤の点滴(タキソテール)を受ける
頸部の腫れは確実に引いてくる。
週末はログへ避暑休養
7月20日 第2回目のアフェレーシスと7/5に採取した血液のうちから採取したリンパ液を約千
倍に培養させたものの半分を点滴で再び体内へ。
アフェレーシスが3時間、リンパ点滴1時間。
寝たまま。
流石に参りました。
おまけに7/16の抗がん剤投与で白血球が下がっているので、それを補うためのノイアップ という皮下注射が飛び上がるほどいたい!
7月21日 ノイアップ二回目。いいい、いたい!
頸部の腫れが引いたためなのか、右手が痛くて上がらなかったのが嘘のように治る。
7月22日 採血。結果、白血球数値が戻っていたのでノイアップ中止。ほ。
腫瘍部分の皮が弱っているのか、擦れるとすぐに液状の物がでてくる。
先生曰く腫瘍細胞の死骸ですよ。カットバンでも貼っといてください。
えー、ほんまにそんなんでええの!
深刻な対応でないのが患者にとっても、大変にリラックス。
7月26日 7/20に採取した樹状細胞を頸部腫瘍部分に注射。
7/5に採取したリンパ液の半分を点滴で再び体内へ。
腫瘍部分が熱を持ち、腫れてくるが、以前のような大きな腫れではなく、腫瘍部分のみの腫れで、 ボコボコとした、まるでエイリアンでも入っていそうな形状とどす黒い色になってきた。
二日間ほど倦怠感を覚える
7月29日 抗がん剤・タキソテールの点滴を受ける
現時点では大きな変化は見られないが、なんとなく腫瘍の大きさが明確に、かつ柔らかく、表面的に はグロテスクになってきた。良い方への変化であってくれることを祈るのみである。
7月30日 時として微熱、倦怠感はあるものの体調の変化は無い。
はっきり言って思ったほどの変化はまだ無い。
治療のブランクがあったための裏返しの期待感だ。
T先生が言ったように、うまく付き合っていけたらいいじゃない、の心境にならなくては。
そんなことを考えつつ、いつもの朝の散歩を終える。
病院を変わって、死への恐怖から随分と開放された。
症状が好転したわけではないのに、いったいこれは何だろうか。

病院を変わる前、確かに耳鼻咽喉科の専門医が、この首の膨れ具合とCT写真で、手術不可、あと2ヶ月で腫瘍が首から飛び出す、と判断した。
否定はしないが、その判断は手術という手法だけの世界に住む職人の判断ではなかったろうか。
彼は食事療法や免疫療法を、「そんなもの、宝くじに当たるようなものですよ」とせせら笑うように言った。
確かにそうかもしれない・・・・
確かにそうかもしれない・・・
しかし、言葉で患者を絶望の淵に追いやるような権利が彼にあるのだろうか。
「貴方は癌の末期ですよ、ステージ4ですよ」なんて言う権利があるのだろうか。
その答えは・・・
44歳にして胃がんで逝った東大医学部教授・細川氏の長編の詩、ペイシェント(患者)の中にこんな一節がある。
ただ患者の立場は立場として
もし医者が不治の病を宣告する時
その後の毎日を
どう、その患者と対決し会話を交わしていくつもりか
これだけの人間的力量を
はたして医師に期待してよいものか・・・・
*文春文庫 「ガン50人の勇気」より抜粋
ぶっちゃけ、洒落ではないが、「死ぬまで生きていられますよ」って言ってくれたほうが、なんぼ気分的に楽なことか。
猛暑の8月、就労していないわが身を恥つつ?こんなことを考えてしまった。
閑話休題
バイクで高速道路を140キロぐらいで走っていると、ここで小石にでも乗り上げたら転倒して死ぬやろなー、って思うことがよくある。でも、そう思っている割には恐怖心は無い。
方や、癌と宣告され、余命何ヶ月と言われた時の恐怖心は忘れられない。自らの力では解決できない無力感から来ているのだろうか。
今受けている治療は、自らの免疫力でがん細胞と闘うということがベースになっているが、そのことが無力感から救ってくれているのかもしれない。
8月1日
大学の山岳部で監督をしていた頃の教え子?が大勢で我家に現る。
所謂、めちゃ嬉しい!
8月2日
7月20日採取したリンパ液の半分を点滴。利いてよ!
夕刻バイク仲間の通夜に出席。
俺より若い。
酒の飲みすぎで肝臓をいわしていたとはいえ、涙が止まらなかった。
死ということに対して神経が過敏になっているのが分かる。
8月4日
採血をして白血球チェック。
3500まで復活したので、ノイアップ注射は中止。
8月5〜8日までは信州の友人が経営するペンションにて静養。
なんとなくだらだらと過ごしてしまう。でも、このだらだら感が私にとっては必要らしい。
癌患者にはタイプCというのがあって、几帳面でいらちな性格はとにかくやばいらしい。
絶対に癌にならないタイプは田中真紀子とのこと。
わがままで言いたいことを言う。これが大切・・・・・
8月10日
先月20日採取したリンパ液の残り半分を点滴。
白血球は3500でOKだが、身体はだるい!
事左様に人間とは気分的なもの、実際の数値と身体気分状況とは一致しないものだな。
8月12〜14日
波賀町のログ別荘にて静養
8月16日
検査のため入院。頸部以外に転移していないかのチェックあり。
18日にこれまでの量の二倍のタキソテール(抗がん剤)投与あり。
20日退院したが、夕刻頃ろより倦怠感に襲われ、22日まで続く。
頸部の水泡は直径5センチの範囲で、3つぐらいの房になっていたのがひとつに合体し始め、透明の液状物が時折出てくる。
「先生、汁が出てきた。どないしたらええの?」
「ああ、癌の死骸やね。消毒してカットバンでも貼っとき!」
主治医T先生とのとのやり取りであるが、この言葉がどれだけ気持ちを和らげてくれることか。
ここで深刻な顔されたら、患者としてはやりきれなくなってしまう。
それにしても、まるで飯蛸のどす黒い房の部分が首に張り付いている様相である。
形状変化は毎日写真に撮っているが、流石にここに掲載するにはグロすぎる。
これがおれの細胞の一部やなんて、やっぱり、こいつとは共存はしとうない。
頸部CTは腫れ、腫瘍の大きさは変化無し。扁桃腺の原発部分には異常はみられない。
腹部CTは細かいこと言い出したら切りが無いが、一応異常なしとのこと。
ここの病院は、登録をすれば、これらの所見や医療履歴等を、インターネットを通じて見ることができる。
すごい時代だが、正直、自宅であんまりこの手の書類を見たくない。
家ではリラックス、病院では癌と対峙、というスタンスの方が精神衛生上いいみたい。
8月24日
採血。
抗がん剤の影響で白血球は1400にダウン。
はい!ノイアップ一本!
8月25日
ノイアップもう一本!(チオビタとはちゃいまっせ!)
飯蛸状の腫瘍は癌が壊死したものらしい。
喉に向かってではなく、外部に向かってもこもこと盛り上がってくれているので、精神的には随分と楽である。
乳癌なんかの人でもこんな状態になる人がいるとのこと・・・・
状況は分かったけど、治るんかいな?・・・・・神のみぞ知るかな?
8月26日
採血。
白血球チェックで3500に復活。
駄目押しノイアップもう一本!
まるで夏バテ防止のドリンク剤である。
でも、今の治療に対して身体と心が付いていっている自分が分かる。
8月に入ってから一日1冊のペースで文庫本が読める。
少なくとも死に対する恐怖心から開放されている証である。
あ、そうそう、いまの精神状況は美人の副担当女医さんと気さくな看護婦さん達の効果も忘れてはいけないのである。
勿論、妻の献身的な菜食メニューの創作も・・・・・
ふー・・・・・あちこち・・・・感謝しなければ。
次回の治療は9月に入ってから。
さらに腫瘍部分に追い討ちをかけるために放射線ピンポイント治療に入る予定である。
8月31日〜2日 別荘のログにて気分転換、読書三昧。
流石に癌関係の図書は食傷気味となってきた
生活習慣云々から始まって血液、自分が原因、ゆえに自分で治せる、というストーリー
が延々と続く。
否定はしないが、三度三度これを唱えられたら外の病気になるかも。
そんな訳でこの頃は軽いエッセイ集をもっぱら古本屋で買っています。
9月3日 午前、放射線照射のためのCT撮影をする。
午後、リニアック担当のY医師の診察と、昨年もしたが顔面を固定するお面作り。
前の病院から持ってきといたらちょっとは安く・・・・なったかも。
Yドクターは腫瘍の壊死状況(水泡状になっている皮膚の状態)を見て、一言。
「これならいけますね。来週から頑張りましょう。皮膚の状況変化によっては中止
しますからね。」だった。
この言葉は気分的に楽。
でも残された10回の許容量でなんとか、利いてくれよ。
採血はノイアップのお陰か、白血球の数が4200になっていた
9月6日 第一回のリニアック。
またまた、スタートレック宇宙への旅立ちである。
照射位置は頸部右側腫瘍部分のみで、くちカウントで43秒間ぐらいだった。
リニアックは痛くも痒くもないとは分かっているものの、矢張りドキドキするもんだ
9月7日 第二回のリニアック
肩というよりも頸部右側が張って重たい。
物は握れるが、腕を空中に上げる動作は辛い。
頸部の腫れに伴って歯ぐきの後退なのか、神経過敏が少し出始める。
9月9日 第四回のリニアック。
頭部の抜け毛が多くなる。
もともと今回の治療を前提に坊主頭にしていたのだが、長さ1センチほどの毛を
掴むと一度に20本近く抜ける。
いやー!白髪まで抜けよる!
どちらかというと先月の抗がん剤の影響かな。
予期はしていたので別段驚かないが、女性の場合は辛いんやろうな。
採血があったが白血球が5900個でえらい上昇している。
ここのところ大体3000から4000ぐらいの推移だったのだが、
ま、正常値は4〜9000だから喜んでいいいのだろうな。
(採血結果等は家に帰ってネットでパスワードを入れれば
その日のうちにチェック出来る。えらい時代です。)
9月10日 第五回のリニアック。
腫瘍部よりついに膿?が多く出始める
9月11〜12日 ドンドン出る。
白濁した液体と血液の混じったピンク色をした液体が3箇所ほどから。
用意したテイッシュがぼとぼとになるくらいに出てくる。
匂いは無い。
一定量を指で搾り出すと穴はすぐにふさがってしまう。
萎んだ皮膚の下は丁度噴火口というかクレーター状に陥没しており、明らかに腫瘍
が攻撃細胞に食われているような触感がある。
慣れてくるとその触感は恐怖感から闘う感動へと変わっていった。
9月13〜15日 第六〜八回のリニアック。
右耳付根下部分がポンポンに腫れる。
以前は、腫れを腫瘍の拡大だと捕らえてしまいがちであったが、今は結構冷静な
自分が見える。
今夏の異常気象は9月に入っても続き、今日も午後から異常雷雨。
家に帰れば愛犬「岳」が雷に驚き脱走して家族は大騒ぎ。
がん患者のお父さんはほったらかしとなり、膿はどんどん出続けていたのだが、家族は
気づいてはくれなかったのである。
夕方、一人で石蹴りをして遊ぶ。(うそ!)
9月16日 第九回のリニアック。
起きぬけは頸部は腫れでパンパンであるが、散歩や柔軟体操をすると少し引く。
愛犬「岳」は約1キロ離れた山の手の住宅街で発見された。
ご帰還で、またまたお父さんはほったらかし。
夕方、一人で缶蹴りをする(うそ!)
9月17日 第一〇回最終回のリニアック。
終わった。
当初ドクターが心配していた、皮膚に穴が開くかも、の状況も無く終わった。
腫れは少しひいて来た。
唾液の出は流石に右側部分の出が悪いが、味覚はそれほどの変化が見られない。
食べ物も十分に食べられる。
ピンポイント照射のお陰か、昨年の照射に比べれば天国である。
9月19日 頸部の水性状の膿?はほぼ排膿(カルテにはこう表現してある)
小さなイチジクを縦割りにして首に貼り付けていた状況が、4センチ四方のカリカリベーコン
を首に貼り付けたような状況に変わった。
ただ、起床時には大豆ぐらいの大きさの水疱に戻っており、手で押せば一気に出てしまう。
以後、手動排膿補助作業は朝の日課となった。
昼から弁天町へ学会出席。
癌には笑いもよく利くと聞いていたので日本笑い学会主催の講演会を申し込んでいた。
しかし、内容は笑いの研究会であってちと高尚すぎた。
司会の人が一番笑えたというお笑いの一日でした。
ま、笑う門には福来るといことで・・・・ははは。
9月21日 3回目アフェレーシス(透析)にて攻撃白血球を採取。
合計で4時間ほどかかる作業で両手に太い採血針をセットされて、寝たらあかん(寝ると血
の流れが遅くなるらしい)は辛い。
でも、更なる癌攻撃の軍隊細胞を作る元だと思えば・・・・痛さなんて・・・・いいいいたい!
採血結果はリニアックの影響か、白血球が3,300に降下していた。
9月22日 体調と精神力が安定してきているので職場に出向き、復職の打ち合わせ。![]()
とりあえず10月5日からとする。
やっぱり、もう一働きせんとね。
抜け毛は治まる。
9月26日 水溶性膿?はコンスタントに溜まる。一日ほって置くと大豆くらいの大きさになる。
痛みは無し。皮膚の変化も特段に見られない。体調も良し。
9月29日 21日に採取した白血球の中から、無菌細胞培養室で培養された癌細胞攻撃誘導の性格を
持つ樹状細胞を頸部腫瘍に直接注射する。 (ハイレベルな漢字文章です。)
17日に終了したリニアック治療の効果が持続している間に、更なる攻撃をということだ。
前回の診察時に聞いていたのだが、本日はこの治療に関してNHK取材撮影があった。
カメラとマイクがある中で頸部に注射。
流石に針が腫瘍部分に入ると痛いが、撮影があるので声は出せず、足をぴくぴくとさせる
おとうさんであった。
あー、痛かった。(2秒ぐらいやけどね)
因みに、放送はNHK,BS2・10月16日(土)17時から45分間だそうです。
番組名は未定となっていますが、少なくとも「痛がるおとうさん」ではないと思います。
はい。
前の病院では、去年の秋には「手術をしなければあと6ヶ月の命だよ」といわれた。
今年の6月には「このままだとあと2ヶ月で腫瘍は外に出始めて呼吸困難となって
死に至るよ。でももう手術は難し過ぎるよ」と宣告された。
今日は2004年9月30日。
妻は毎朝の人参ジュースに始まる玄米菜食の献立を続けてくれている。、
友人は時にふれ励ましの訪問やメールをくれる。
新たな医療と人の出会いがあった。
E病院・Tドクターをはじめとしたスタッフによる真摯な治療。
本当に恵まれた自分が今ここにある。
毎朝目覚めることがうれしい。
報告でギャグを入れるぐらいにまで精神的に安定してきた。
来月もそんな自分でありたい。
みなさん、ありがとう。
10月2日 腫瘍部分からの朝の膿だしも無くなり、ペッタンコの形状になる
10月3日 名古屋に「いずみの会」というがん患者の勉強・励まし会の組織がある。
妻がその活動をネット見つけて、今日の講演会を申し込んでいた。
題して「尿飲療法」・・・・
はっきり言って究極である。
森繁久弥とか古舘一郎なんかは以前から取り入れてるらしい・・・
ま、話だけは一度聞こう。
(感想・実施効果は後日)
10月4日 9月21日に採取し、培養された活性リンパ球を大切にかつ効率よく使うために、半分は直接 頸部に、残りの半分は点滴で体内に戻す。
この頃より首を回すと、いまま頸部血管や筋にまとわりついていた腫瘍が少しほぐれてきた ような感触が出てきた。
要は首を回すと筋がほぐれる音がするのである。
10月5日 永らく休職をしていたが、精神的にも体力的にも安定してきたので復職をする。
この不景気なご時世に帰る職場があるということはありがたいことである。
会う人会う人に経過報告をしなければならず流石に疲れる。
顔面の右半分は4日の治療の反応だろうか浮腫み気味になる
10月8日 4日と同じ治療を受ける。
10月10月 ペッタンコだった腫瘍部分に再びソラマメ大の水疱が出現
溺れる者は藁おも掴む
鰯の頭も信心から
下手な鉄砲も数うちゃあたる
等々

人間行き詰った時にはなんでも試してみるこっちゃ、ということだろうか
尿飲療法もその類だろう
インターネットでこれを検索すれば驚くほどの結果数が出てくる
3日の名古屋での講演は体を斜めにして聞いていた
女性講師は2時間にわたって尿飲の効能を並べ立てる
便秘はたちどころに治ります
お肌がつやつやしてきます
白髪、アトピー、なんやかんやなんでも利きます・・・
喉のセンサーが尿を分析して体に抗体を作っていきます
便は食べ物の粕ですが尿は血液と同じです
無害です。無菌です。
朝の一番絞りが特に利きます。
具体の数値は挙げられず、観念的な話に終始している。
ますます、体は斜めになって聞いていた。
体のメカは偉大だ。
小便は排泄物じゃないの・・・不要物じゃないの・・・だから体外に出すんでしょ。
喉のセンサーっておしっこを飲むためにあるの?
と、ぶつぶつ言いながら・・・・
でも・・・でも・・・でも、ひょっとして・・・・
4日間試しました。
意外と飲めるものです。
特に菜食を続けているので尿も透明でお味の方も結構・・・
朝と寝る前にコップ半分飲みました。
職場では思わず口に手をやって匂いました
なーんにも変わらんわ!
多分この記事を読んだ講師は、変化は5日目からあります、て言うやろな
いいと思って続けている方がおられる以上、これ以上のコメントは控えます
多分、僕は信心が少ないんだとおもいます。
はい。
10月12日 水疱は日増しにカンカン(キンキン)に張ってくる。
きりきり、ずきずき、した小さな痛みを周期的に感じる。
活性リンパ球が闘ってくれているんだ、という自信が今はある。
10月13日 検診。
先日の採血結果より、「腫瘍マーカー値が下がってるね」というコメントがドクターよりある。
この言葉ほど力強く体中をかけめぐるものはない。
10月16日 放射線治療とリンパ球療法を後方支援する意味で抗がん剤の点滴を受ける。
ただ、復職したこともあり通常の半分の濃さで行ってもらう。
水疱はソラマメ大の大きさでパンパンに張っているが、押しても出てこない。
NHKBS2の放送を見るも私の画像は無く、映っているのはTドクターとO看護士さん。
やっぱり、患部に直接注射は生々しかったかな?
10月18日 水疱がパンク。
最初は鮮血色の血膿、後に前回と同じ白濁色の液体が一気に出た。
体調は抗がん剤の影響だろうか、倦怠感に襲われ、昼から休む
10月19日 便秘と倦怠感が続く
10月20日 比較的すっきりとした朝を迎える
10月21日 採血。
抗がん剤による白血球の急激な減少は見られず、3300をキープ。
10月23日 再度、採血をして白血球のチェックをするも3300で変わらず。
水疱からの膿は毎朝数的に治まってきた。
10月26日 天井が動くようなふらつきとそれに伴う吐き気を感じる。熱はない。
原因は分からない。
排膿は依然、毎朝数滴あり。
10月31日 排膿口は塞がる。
日曜日の昼食、ネットで調べて川西市へ好物の讃岐うどんを食べに行く。
帰宅して昼寝の後、起き上がった瞬間にめまいと吐き気を覚え、昼の食べ物を嘔吐してしま う。
原因は分からないないが、寝ると血流の滞りの為か頸部の腫れが大きくなり、それが三半 規管を圧迫してふらつきと吐き気を誘発してるのではないかと、素人推測をする。
11月1〜3日 ふらつきはなんとなく続いている。
それ以外は特段に体調の変化も無く10月を過ごした。
復職してからも朝の散歩は週に2,3回は出来た。
職場の周りの方の気遣いもありがたい。
さー、ここまで来たら年内は持つやろ!(ちょっと、謙虚さが無くなってきたなー。)
11月、同僚の奥さん(49歳)が亡くなられた。
乳癌から骨に転移、最後は寝たきりで壮絶な闘いをしておられた。
自宅に遊びに行ってお会いしたこともあった。
通夜に伺った。
遺影を拝見しても、不思議と涙は出てこなかった。
運命というものは現実として受け止めなければならない。
しかし、最後まで立派に闘われた方の精神は肉体が滅びても永遠に不滅であると感じた。
生前の写真を拝見するとそれは、残された家族をジット見守っているよう感じられたたからである。
合掌。
そんなこともあった11月、あれよあれよという間に過ぎ、12月になっていた。
Mドクターも、「12月になりましたねー」、とポツリ。
やっぱり、こんな言葉がうれしい。
11月4日 採血(白血球3900)とピシバニール(免疫力を集める薬)の注射を頸部へ。
これが、また痛い!
11月5日 錠剤の抗がん剤(ティーエスワンカプセル25)をスタート。
11月6日 午後より倦怠感が襲ってくる
11月9〜10日 2〜3時間置きに倦怠感とめまい
11月11日 夕刻より抗がん剤を中止する
11月15日 ほぼ、体調は回復する
11月17日 CT撮影と採血(白血球3900)、抗がん剤はタキソールの点滴に変更して実施
そして、お約束のピシバニール。
痛い!
11月19日 朝からめまい、吐き気が続く。朝食を嘔吐。
夕刻には楽になる。
11月20日 心配していた便秘(抗がん剤の副作用)から外痔(いぼ痔)になる。
痛さのあまり一日寝込む
11月22日 辛抱たまらず近くの胃腸外科に出向く。
血栓性外痔核と診断され、その場で切開手術。
心の準備をする間もなく、ズボンを下ろして横にならされる。
とほほ・・・・
麻酔の注射が肛門付近へ。
なんと表現をしていいか分からない痛さ!
麻酔注射の麻酔はないのか!
切開は痛みを感じなかった。
お次は腫れ止めの座薬なのだが、肛門が炎症を起こしているので、入る訳がない・・・
でも、入れられた。
先生、止めてー!の悲鳴とともに気絶しそうになる。
再度、「先生、堪忍して!」と叫ぶと、「あほ、わしが堪忍してほしいわ」、と一喝されて我にかえる。
でも、20分後には、けろっとして、すたすたと歩いて帰るお父さんであった。
11月24日 リニアックの影響による肩の凝りはかなり解消される。
11月27日 採血、ピシバニール、タキソールの点滴。
三位一体攻撃である
点滴中に、Mドクターが、ピースサインをしながら「白血球が4900」まで上がってるよ!」
といって現れる。
ここんところ白血球を上げる治療はしていないはずである。
はて、さて
おそらくこれは素人推察ではあるが、22日の激痛拷問切開肛門治療が体中の白血球を 呼び起こしたのではないだろうか。
刺激を与えると白血球が増えることはよく知られていることだ。
11月28日 夕刻より突然に悪寒。後、頸部腫瘍部分が高熱になり腫れあがる。
まさにエイリアンが闘っているといった感じだ。
でも、戦いは5時間余り続き、くたくたです。
11月29〜30日 終日、腫瘍周辺で不連続なズッキンズッキンが襲ってくるが、不快感には至らず
12月3日 ここ数日間で腫瘍は大きくなる傾向にあるが、外に向かっているような感触である。
しかも、壊死していく部分が広がっている。
色と形が変わった頸部腫瘍部に毎朝ガーゼ取替えをするのだが、日々大きくなっている。
少なくとも気道や食道を圧迫するような感じは無く、精神的には随分と楽である。
12月4日 CT撮影(17日に撮影したデーターを消去したとの電話連絡あり。そんなわけで再撮影。
これはちょっと問題やな。
お詫びにアンパンの詰め合わせでももらおうかな・・・・)
採血・ピシバニール・タキソール抗がん剤の点滴。
白血球はなんと2900に下がっていた。
原因はなんやろね。
多分、外痔が一段落してほっとした1週間を過ごした結果、闘う白血球が帰っていったんやろう。
11月26日は職場の秋の小旅行であった。
夜の神戸を船で楽しんで、後はリッチなホテル・ライフを、という趣向であった。
夕食の後、一人部屋に戻って神戸港の夜景を眺めていると、昨年からの出来事が走馬灯のように脳裏を駆け
巡る。
これから先本当にどうなるか判らないけど、癌をきっかけに沢山の人達との再開や巡り会いがあった。
みんなが応援してくれている。
遠いところから手作り減農薬の野菜が届く。
ザックかついでJRに乗ってわざわざ玄米を届けてくれた友人。
励ましのメールや電話![]()
みんなから生かされているんだ、ということを実感する日々である。
「癌」は3人に1人の時代。
「痔」は3人に一人が患っている。
もう一つ痴呆の「痴」が加われば、病垂三位一体になってしまう。
これだけは堪忍してよ!
さー、我家のテラスのクリスマス・デコレーションも完了。
後は年末を乗り切って新年を迎えるぞー
12月11日 午前、頸部にピシバニール注射。 午後より熱が出てダウン。
12月12日〜 腫瘍部分より排膿が多くなる。
時折突き上げるような痛みが走る。
薬が闘ってくれているのか、腫瘍が反撃に出て排膿以上に活動を始めたのか・・・・・
不安がよぎる
耳下頸部から下顎にかけての腫れは大きくなってくる。
首がパンパンで仕事もそろそろ限界。
12月17日 午後、ピシバニール注射とタキソール点滴
今日は1ヶ月ぶりにTドクター。
今の状況がどちらに向かっているのかを質問するが、明確な答えはなかった。
医者にもわからない。
正直なところであろう。
夕刻には腫れが引き、ずきずきとした痛みが消える
便秘状態深刻
12月18日 夕刻より腫れと痛みがぶり返す
腫瘍部分は表面上では5×6センチ、高さ所により1 .5センチの大きさになる
12月19日 午後には痛みが収まるが、きりきり感は強い
12月20日〜24日 ボーナスを貰う。
休職もしていたので満額ではないが、今回ほど嬉しかったことはない。
勤務できていることが嬉しい。
目頭が熱くなってしまった。
勤務中はさほどの痛みはないが、就寝時、体温が上昇してくると痛みが出始め、結局半分ぐらい の睡眠しかとれていない。また、排膿の量も多く、一晩に二回のガーゼ交換が続く。
12月25日 午前、ピシバニール注射と抗がん剤、タキソール点滴
久し振りに夜は痛みもなく寝られた
12月26日 午前、首の腫れ出しと悪寒
夜のガーゼ交換は4回にも及ぶ。
ここんとこの週末のパターンである。
12月27日 味覚障害がぶり返す。
唾液障害、特に舌の部分の渇きも大きくなり、熱いものや冷たいものは刺激が強い
空気の乾燥もあるが、散歩は水ボトル無しでは歩けない![]()
12月28日 仕事納め!
10月に復職をして今日のこの日、感無量である。
職場のみなさんありがとう。
12月31日 この頃、毎朝起きた時の妻との会話は、「いえーい!きょうも生きてるぜー」である。
待ちに待った朝がやってきた。
今年、特に後半は本当に一日一日が苦しかった、長かった。
妻はシフトの関係で今日も出勤であった。
午前中は掃除と一人で缶蹴り。
お昼は近くの超有名気まぐれ蕎麦屋へ。
タッチの差で寒風の中の行列は免れた。
(以下は男性系薀蓄こだわり雑誌によくある蕎麦の食し方作法による)
カウンターに座る。
鰊とビンビールを頼む。(本当は熱燗なのだが、舌がもたないので・・・)
右手には文庫本。(ほとんど文章は読めていない。)
鰊の味はかろうじて判るが超辛く感じ、ビールはサイダーみたい。
頃合を見計らって、盛りそばを頼む。
本わさびとつゆが配膳される。
わさびをすりながら一年を振り返る。(残ったわさびを持って帰ろうかと悩む)
盛り蕎麦が来る。
何もつけずに二三本すする。
ほとんど、そばの味は判らない
次は、たれを少しだけ付ける、江戸食いをする
たれを少ししかつけてないもんだから口の中はもぐもぐ状態(トホホ・・・)
ネーさん、お勘定!
はーい、2,300円です。
調度払って、釣りはいらねーよ、って言って出る。
思いっきりポーズを付けて蕎麦を食ってみたかった。
「あんた、あと二ヶ月で・・・・」って言われて大晦日まで来た。
まだこんな演技を思い立つ自分がいる。
もうちょっとは頑張れるやろ。
2005年
1月1日 間違いなく2005年に年は変わった。
大晦日からの雪は六甲山に20センチほどの積雪をもたらした。
気持ちは3時頃から起きている。
妻も起きているようだ。

4時。
「六甲山へ初日の出拝みに行こか?」
「ええよ」
こういうことは直ぐに決まる我が家である。
車は快調に雪の山道を駆け上がってくれた。
生憎、ご来光は拝めなかったが、今年もこんな乗りで過ごしてゆきたい。
1月2日
年末から飲み始めた痛み止めのロキソニンはよく効いてくれ、腫瘍表面上のやけどのよう な痛みを緩和してくれている。
ぽかぽか陽気。
箕面までバイクで走り初め。
1月3日 いつもの舞鶴、小浜方面へ車でドライブ。
雪が無くてがっかり。
ほんまに俺はがん患者なんだろうか?
1月6日 腫瘍部分からの排膿は最大量になる。
一日に8回ぐらいのガーゼ交換。
毎回、ガーゼは絞れば滴るぐらいにボトボトの状態
1月8日 医誠会病院にて抗がん剤の点滴
白血球は6,400もあり!
超正常値ではあるが、腫瘍マーカーも上がっている。
結局、闘うために増えているんだろうか・・・
頑張ってくれよ。
次の目標は3月の誕生日なんやで。
1月10日 気分がいいので二年振り?で六甲山へ
いつものショートカットルートを選んで歩き始めるが、空気が乾燥していて、唾液不足
の 咽がもたない。
結局、1時間ほどでダウン。
昼からは家でおとなしくしていたが、お約束の悪寒と発熱が・・・・
2時間で収まる
1月17日 医誠会病院にて抗がん剤(タキソール)点滴
当夜は痛み止めの服用はしなくても就寝が可
1月21日 一日一錠のロキソニン(痛み止め)、ガーゼ交換数回、就寝時の寝汗、便秘の日々は12 月から変わらず
1月22〜24日 気分転換で久しぶりに関空へ。
やっぱり、パスポートを持つとうきうきします。
行き先は中国のアモイ。
行き先は兎も角として、こうして旅に出られることが嬉しい。
あれほど続いていた寝汗が旅行中は止まる。
なにか、精神的なものが作用しているんだろうか?
1月25日 日々の作業は変わらず。
旅から帰って我が家で寝たとたん、またまた寝汗地獄。
どないなっとんねん!
現在の腫瘍の大きさは、SSサイズ卵を長辺方向切りをし、紅芋風の色合いを付け、形を オーストラリア、エアーズ・ロックの形に変形させ、噴火口を10個所ほど付けて、左耳 下に貼り付けたようになっている。
もっとリアルに認識するならば下記アドレス(EU諸国で販売するタバコパッケージにつ けられる写真の内の一部)に掲載されている咽頭癌の写真が近い感じがする
(気の弱い方は見ない方がいいかも・・・)
http://europa.eu.int/comm/mediatheque/photo/select/tabac/p-010904-00-17.jpg
こんな雰囲気の塊が耳の下にへばりついてるんです。
瘤取りじいさんみたい、なんて言ってる場合ではおまへん。
しかも、これは表面上の話であって、その基礎となっている部分は見えない。少なくとも 、咽のダクト部分への圧迫は今のところは無いので精神的にはかろうじて平常心を保って いるのだが・・・
1月29日 医誠会病院にて採血、抗がん剤(タキソール点滴)
白血球はさらに上昇して8,600になる
この数字は何じゃろか。
正常値の範囲ではあるが、アッパーの9,000まではもうすぐ
何かと闘っているんだろうな。
Mドクターと小一時間に渡って、リンパ節の触診も含めて診察して頂く。
併せて今後の治療方針の検討,等々。
3分診療が云々される昨今、このようにじっくりと向き合って診察して頂ける のは有難い。
精神的に非常に安定する要素のひとつになる。
阪大病院でのMT1ペプチド治療という新しいワクチン治療に関して、血液の タイプ検査をしていたが、なんと適合率50確率であったが、両方のタイプを
持っていることが判明。両親に感謝しなければ。今後は、更にその新しい治療に関してこ のがん細胞が適合するかをチェックしてもらうことにする。
点滴は2時過ぎに終了。
昼食も摂らずに付き合ってくださるI看護婦さんにも感謝
帰りは梅田・中崎町でお約束の好物・カレーうどん。
あー、安心の土曜日だ。
不思議なもんです。
あれほど続いた寝汗が止まった。
Mドクターは俺に催眠療法でもしたのかいな。
1月30日 朝起きると、今まであった腫瘍の下に同じぐらいの瘤が出来始めた。
腫れの痛みが強い。
夕刻にはその瘤がブヨブヨした壊死状態になってきているようだ。
神経に障る、キリキリとした痛みが絶えず周辺に走る
1月31日 もとあった腫瘍と一体になりつつある。
土曜日の抗がん剤の影響で反応しているのだろうか。
痛み止めのロキソニンが6時間ぐらいしか効かない。
会社は早退する。
就寝時の排膿は相変わらず多量
ガーゼとの間に挟んでいるティッシュはボトボトになる。
新たな展開の始まりかもしれないが、少なくとも2005年1月